湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:歌劇「ペレアスとメリザンド」

2017年08月10日 | Weblog
アンゲルブレシュト指揮ORTF他、ジャン=ポール・ジャノット(ペレアス)フランソワーズ・オジェア(メリザンド)ジェラール・スゼー(ゴロー)ジャニーヌ・コラール(ジュヌヴィエーヴ)ロジェ・ゴスラン(アルケル)ニコール・ロバン(イニョルド)ジャック・マース(医者)(ina配信/SLS)1955/11/24live

音は意外と良く、この繊細で終始静謐な曲を味わうには十分。歌唱はいずれも安定した手練揃いでアンゲルブレシュトは慣れたものだ。少し客観的で固い指揮に感じる向きもあるかもしれないが他の記録と比べてもむしろ高水準にあり、歌唱もふくめての調和はこの平坦な曲においては特によほど慣れた人でないとできないだろう。変に外連味ある演奏になってしまってはダメなのだ。内容をわかった上で聴けばさらに「聴きやすい演奏」ということがわかるだろう、私はよくわからないけれど、内容は。モノラル。
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☆グラズノフ:弦楽四重奏曲第5番

2017年08月09日 | グラズノフ
○モスクワ放送弦楽四重奏団(MELODIA)

これこそスタンダードと呼びたい。スタイルは現代的で音もプロとしては普通(力強く金属質で私は苦手な音だが)、あっさり流れるように速い(とてつもなく速い)インテンポでパウゼもどんどんすっとばし、フレージングにも過度な思い入れがなくポルタメント皆無の教科書的な表現だ。しかし、非常に高度なテクニック(今まで聞いたどの演奏より抜きん出て上手い、ミスは1楽章末尾が速過ぎて聞こえなくなるところくらいだ)に裏付けされたこの異常な集中力、(繰り返しになるが)終始ものすごく速いテンポはグラズノフ円熟期のワンパターンで厚ぼったい書法のもたらす変な重量感を軽やかに取り去って、敷居を低くしている。逆に旋律の美しさが際立ってきて耳優しい。西欧古典を聞くような感じがするが、ベートーヴェンを意識したがっしりした曲調については、それほど意識的に強調してはいないふうである(アタックの付け方も普通だ)。そうとう手慣れたアンサンブルぶりでこのロシアの団体の経験値の高さに驚かされるが、解釈というより録音バランスの問題だろう、2楽章第二主題の展開でファーストが巧みに裏に入りセカンドと絶妙な高音ハーモニーを聞かせる(若い頃からグラズノフの得意とする方法で真骨頂だ)非常に美しいセンテンスにおいて、なぜかセカンドが引っ込みファーストが雄弁に「対旋律」を歌ってしまっている。意図だろうが違和感があった。まあ、このスピードの4楽章が聞けるだけでも価値は多大にある。このくらいまで速くないとダレますよ長丁場。総じて○。

<後記>何度も聞いていたらだんだんそんなに言うほど巧くない気がしてきた。4楽章後半とかテンポグダグダになりかけてるし、ロシア録音、とくにモスクワ放響やモスクワ・フィルの弦楽器にありがちな中音域の薄いばらけた音響(多分に録音のせいもあると思うが)に近いちょっと・・・なところもある。それも鑑みてやっぱり、○は妥当かな。

※2006/2/3の記事です
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☆ルーセル:組曲ヘ長調

2017年08月09日 | フランス
○コープランド指揮トロント交響楽団(DA:CD-R)1976/11live

コープランドは指揮もよくしたがいずれも生硬で透明感と客観性が勝るものである。この演奏では録音のせいもあろうが重心が低い響きにいちいちこだわる感じが強く、テンポがちっとも前に向かっていかない。上にも跳ねない。チェリの演奏様式に近いが指揮技術的に劣るというか、整え方が甘いと言うか、がさつである。ルーセルはナディア・ブーランジェらを通してアメリカのアカデミズムに影響をあたえた一人で、コープランドの日和ったほうの作品にはとくにリズミカルな書法や響きの傾向に共通点が見出せるように思う。この作品が選ばれたのもそういう理由だろう。いちおう○にしておく。チェリ以外ではNYPのころのブーレーズにも似たところがあるか。

※2007/12/30の記事です
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☆グラズノフ:交響曲第7番「田園」

2017年08月08日 | グラズノフ
◎ゴロワノフ指揮VRK交響楽団(melodiya)LP

VRK(キリル文字でBPK)はしばしば見られる略称だがモスクワ放送交響楽団のことである。ブリュッセルにVRK(VLAAMS RADIO KOOR)という合唱団があるが別物。何の略称なのか調べたがわからなかった。ムソルグスキーなどの歌曲伴奏でこの表記がなされたものがいくつか(映像含め)残されているがきわめて少ない。THE GRAND SYMPHONY ORCHESTRA OF THE VRKやVRK ORCHESTRAなどと英語圏では表記されているようである。したがってこれは既出CDと同一演奏である。演奏時間並びにわずかなミスや繋ぎ、音色が同じであった。

但し音はきわめてクリアである。私が初めてこれを聞いたのは非常に状態の悪いPearlの復刻CDで、多分そののち復刻されたものもイタリア盤でなくとも五十歩百歩である。だがこの演奏に私は打ちのめされ、それまで聞いてきたグラ7の何と貧弱なことか、何とこなれていないことか、何と解釈されていないことか、何と思いの伝わらないものかということに気がついた。ここには自在なテンポと踊るようにしなやかにうねるように操作され波打つオケ、完璧な演奏があった。遅ればせながらゴロワノフ(当時はゴロヴァノフと呼んでいた。ゴロワーノフとも呼んだかと思う。古いマニアでも知らない類の指揮者であったため入手し聴くのは至難であった)という傑物(怪物ではない!)の、特に歌劇的な表現の優れた手腕は、大規模編成の曲にその特質を示すということを知った。カリンニコフやチャイコフスキーやグラズノフでも比較的穏健な6番といったところでは空回りを感じる。しかしワグナーやスクリアビンとなると話は別だ。違和感を覚えさせるほどに主として解釈と発声法に極端な抑揚をつける、それを受け容れる豊穣なスケール感のある音楽、あるいは構造的にしっかりした音楽(中期スクリアビンの管弦楽は特異ではあるが素直なため崩れようがない)には威力を発揮する。まさにこの曲など「形式主義者」グラズノフの力強くもしっかりした重量感のある音楽となっており、逆に単純に音にするだけでも曲にはなるのだが、そうすると理に落ちた感じになってしまい「ナンダベートーヴェンのまがいものだよ」という不当な評価につながってしまう。しかしこの曲ほどグラズノフの「アマルガム作曲家」としての特質が反映されたものはない。それは対極にあると思われがちなラヴェルを思わせるほどである。ここにはたとえばワグナーの半音階がある(2楽章第一主題の展開など)、チャイコフスキーの慟哭がある(同じく2楽章第二主題前後)。古今東西のさまざまな作曲家のエッセンスが見事にパッチワーク状に繋ぎ合わされ、まるで見事にしなやかなグラズノフという織物に作り上げられている。これは亜流音楽ではない。単純ではない。そしてその魅力を体言できるのは、グラズノフの要求する非常に高度なテクニックと体力(!)を各個が備えた大オーケストラ、更に解釈によってパッチワーク音楽の弱みである「繋ぎあわせ感」を一つの巨大な潮流に併合し表現させてゆくか、それをわかっている指揮者のみである。私はそういった指揮者を一人しか知らない。

それが、ゴロワノフである。

これは(継ぎ接ぎとはいえ)ゴロワノフにとっても最高傑作の一枚であり、この人のこの曲の演奏としては信じられないほどの精度とアンサンブルを見せ付けるものとなっている。ゴロワノフが荒いだけの笑ってしまうアーティストと捉えている人は不幸である。まずは本領である劇音楽、それに近似した位置にいるグラズノフやスクリアビンといった作曲家の作品に触れてから喋るがよい。

これは7番の史上最高の、恐らく今後も現れない名演である。最後の一音まで、この力強さと驚嘆すべきソリストの技に忘我することうけあいである。長い終楽章をここまで聞かせる演奏は無い。そしてグラズノフ最高のスケルツォ、3楽章の蹴り埃舞う軍馬たちの疾走に、憧れと郷愁と、熱狂を感じない者はいまい。

尤も、Pearlの雑音を取り除いた痩せた音では難しいかもしれないが。私はよほどのことがなければ媒体音質に言及しない方針なのだが、これは、十数年以上も聴き続け残念に思ってきた音質の「穴」を見事に埋めてくれるLPであったため書き記しておく。復刻もやりようによっては「普通の人」に誤解を与えるものになりかねない見本のようなものだ。メロディヤではないレーベル名がかかれているがメロディヤ録音と聞いたのでそう書いておく。

※2005/12/17の記事です
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☆シマノフスキ:交響曲第4番「協奏的交響曲」

2017年08月08日 | 北欧・東欧


◎ルービンシュタイン(p)ロジンスキ指揮ニューヨーク・フィル(LYS他)live・CD

いくら録音が悪くてもここまで両者の方向性が合致して結果異常な集中力で弾ききられると◎にせざるを得ない。スタジオ録音よりも激しく野獣のような演奏で突き進むルビンシュタイン、NYPというこの曲に使われるのは珍しいほど素晴らしい楽器を持ってやはり野獣のような勢いで音楽をドライヴしていくロジンスキ、スピードと力感の余り3楽章にいたってはミスタッチや弾きそこないが散見されるがそれとて大した問題には感じない。既に「音楽」が出来上がっているからだ。

この曲に生硬な演奏が多いのはひとえに書法上の問題があって、剥き出しになった声部が数珠繋ぎにされ進行する場面が多いため、萎縮したような演奏になることが多く、ソリストもミスを嫌ってマニアックな細かい音符まで表現しようとするから、全体の音楽としては中途半端な近視眼的なものに仕上がってしまい、総合で見て技術的にもイマイチな結果ととられかねないものになる。

協奏曲ではあるが交響曲という前提があり、オケもソリストも拮抗しながら、同じ方向性に向かってまとまっていく必要がある曲だ。たまたまというか、ルビンシュタインの細部に拘泥しない即物的かつ激情的な性格に超絶技巧が伴っていて、ロジンスキの暴君的な力感がオケをしっかり従わせるだけの説得力(と技術)を持ち、両者とも表現の機微が無いとは言わないがあくまでメリットは「勢い」に置いているという点で相性が(少なくともこの曲では)ばっちりなのである。NYPがもともと一流の技術を持っていたという点も看過できない。この曲はローカルなけして巧く無いオケによりやられることが殆どで、練習が万全の演奏すらできていないことが多いからだ。

スクリアビンの影響を再度露骨にし、けして技巧的に高いものを投入したとは言えない和声的で単純な書法による曲なだけに、ソリストは時折奇妙にも思える進行をきっちり繋がったまとまった音楽として聞かせるように仕上げなければならないし(2から3楽章へのアタッカの前の下降音形の持って行き方など)、オケ奏者には音量バランス的に無理な負担がかかる部分もある。

一つの解決法に、シマノフスキ第三期の作風の要となる民族舞踊の特殊性を浮き彫りにして細かい起伏を盛り込み刹那的な魅力を引き出し続けるという方法があるが、これは作曲家自身が自演にて失敗した要因でもある。まとまりがなさすぎてしまう以前に、とことん演奏しづらくなるのだ。となるともう一つの解決法は「勢いで押し通す」、それに如何に説得力を持たせるか・・・つまりは勢いを裏付けるトレーニングとポテンシャルがどこまでいけているか、それしかない。

山っ気なんていらない。ルビンシュタインは押しも押されぬヴィルトーゾで、即物主義的な表現だけを売りとし音色にも解釈にもそれほど幅のある表現を好まない。だからソロ曲では魅力が無いものも多い。ロジンスキはクリーヴランドを叩きなおすとともに短期間ではあるがNYPに君臨した指揮者であり、オケトレーニングに長けているのは言うまでもなく、その異常な集中力と力任せの表現で同時代流行のスタイルの最先端にいたことは言を待たない。つまりはその両者のこの曲における一期一会的なライヴである、それだけで期待し、満足していい。大音量でノイズを厭わず聞いてほしい。これは余り評価されないシマノフスキ晩年の作品で感傷性や民族性が魅力だが、そういうものを最低限はもちろん表現したうえで、まるでロックフェスのような熱気中心に聞かせていく、それだけでいいのだ。◎。3楽章の暴力的な演奏は凄い。

※2008/9/5の記事です
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☆ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」

2017年08月08日 | 北欧・東欧
○レニングラード・フィル協会弦楽四重奏団(MELODIYA)LP

タネーエフ弦楽四重奏団の旧称。しかしこれは巧い!曲が冗長なので正攻法では正直飽きる部分もあるのだが、テクニック的にもまとまり的にも、ロシア流儀ではあるが音色的にも国民楽派の器楽曲として素晴らしいものを見せている。奇をてらったところのない表現はしかし最近の演奏にみられるような妙に透明感のある無味乾燥あるいは常套的な穴には堕ちていない。これはやはり隙の無い音色表現に尽きるといってもいい。細かいヴィブラートがえもいわれぬ味をはなっている。個人的に◎でもいいとは思うのだが、理由は余りはっきりとはしないのだが少なからず飽きてしまう部分があったので○にしておく。奇をてらわないのが仇?

※2006/8/11の記事です
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ヴォーン・ウィリアムズ:連作歌曲集「ウェンロックの断崖にて」(1909)

2017年08月07日 | ヴォーン・ウィリアムズ
ステュアート・ウィルソン(T)レジナルド・ポール(P)マリー・ウィルソン四重奏団(DECCA)1929チェルシー・SP

初演者エルウェス(1917録音)に次ぐ骨董録音か。ヴォーン・ウィリアムズの初演も担ったことのあるテノールだがそれ以外では忘れられた感もある。表現は比較的大仰だが響きが浅く音量変化も付けず、嫌味がない。そしてピアノが素晴らしくドビュッシー的なリリシズムをかもし、録音のせいもありカルテットはやや引いた表現でほぼ聞こえない曲もあるものの、ピアノとは調和し、静かに丁寧に、「ブリードゥン」でテンポをたっぷりとって盛り上がりを作るところでも恣意性を感じさせることなく、儚げな世界を茫洋と拡げる。エルウェスとは時代が違うし独唱者も少し弱いものの、全てが一つのトーンで統一されており、それは紛れもなく完成期のRVWの薄明の感傷的なものである。まあ、詩人はこういう感情的には大仰なスコアを嫌ったそうだし、演奏も思いっきり感情に訴える(けれど響きは透明でフランス的)から、これでも正統とは言えないのかもしれないが、いや、ヴォーン・ウィリアムズとしては正統で、聞いた中で最も古い「ヴォーン・ウィリアムズらしいヴォーン・ウィリアムズの録音」である。ノイズを除去しきれないSPの音なのに、しばし沈黙してしまう盤なんてそうそう無い。収録時間の関係で3,4曲目が逆転しているが違和感はない。ブリードゥンの丘はほんとにギリギリ収まっている。つまり、SPの録音制約でなく、正しく解釈を取ったのだ。なかなかでした。
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チャイコフスキー:交響曲第5番

2017年08月07日 | Weblog
アルバート・コーツ指揮LSO(HMV)1922/10-11・SP

webで聴ける。エリック・コーツとは別人。オケはイギリスの一流どころなので個人技はあるのだろうが、テンポは流れがちで即興的な表現も気になり、楽しむという意味ではメンゲンベルクとトスカニーニをかけあわせて4で割ったようなもの。グダグダな部分があんまりにも多く何かしらの思い入れがないと全曲聴くのは難しい。珍演好き向け。
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グラズノフ:交響曲第8番

2017年08月07日 | Weblog
セレブリエル指揮ロイヤル・スコティッシュ国立管弦楽団(warner)2005/1/9・CD

オケの性向なのだが旋律への思い入れのなさが気になる。発音が型どおりでヴィヴラートやらニュアンスの付加がない。シンフォニックな演奏で総体としてはよく響き、グラズノフの円熟した技法を変な歪みなく聴けるのは良いといえば良いが、かえってマンネリズムをも浮き彫りにしてしまう。解釈抜きに旋律そのものの魅力だけで聴かせることも十分可能な作曲家だが、完成されたシンフォニーとしては最後にあたるこの曲にはそれまでみられなかった暗さや単純さ、古典的な構造性への傾倒が完全に西欧的な楽曲への脱皮をみせる箇所が随所にみられ、そのあたりの「変化」をチクルスの中で表現するに、もちろん無解釈ではなく細かなルバートなど独特のものはなくはないとはいえ、それまでのシンフォニーと同じトーンでやるのではなく、漆黒の二楽章も、これはこれで非常にわかりやすいが、なぜ漆黒でなければならなかったのか、物語性を求めたくもなってしまう。奇妙な半音階の浮き沈みしダイナミックな表現を示す特徴的なスケルツォは、弦に鋭さ、明確さが欲しくなる。中間部のテンポの落とし方は一本調子を避けて良いものだが、いずれ楽章間対比はグラズノフが重要視していたといつものだ。四楽章は全曲バランスを考えて雄大にやっている。全般、美しくニュートラルな演奏なので、苦手な向きは聴きやすいかもしれない。
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ラヴェル:ハバネラ形式の小品(ヴァイオリン編)

2017年08月06日 | Weblog
ジェラール・プーレ(Vn)リグット(P)(SAPHIR)2001/12/8パリ(アルシペル)live・CD

ホール経営社による自社レーベルだが2000年代前半までの大物最後期のライヴ録音などマニアならずとも聞いておきたいものや他にないフランス音楽のレパートリーをまとめて聴けるので、レーベルとしてすでに存在しないがAmazonデジタル配信などで試してみてほしい。日本のヴァイオリン界に多大な貢献をされているプーレ氏が、ただ派手だったり原典主義のストイックさを聴かせたり程々の技巧で無難にフランス音楽としての音色だけを保ったような演奏ではなく、むろん高度な技術を背景に、時には楽曲の本質を刳り時にはまるで「再生機」のようにただ忠実な音を出すことで、楽曲それぞれへの即応性の優れたさまを示している。現代あるべき演奏の一つの模範を示し、例えばこの曲では抑制的に、音色が音楽を奏でているようだ。柔らかく、しかし精緻。
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ラヴェル:ボレロ

2017年08月06日 | Weblog
デルヴォ指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団(COMMAND/forgottenrecords)1961/5パリ

これが意外や意外?まっとうにボレロでイメージ通りのボレロ。オケの音が少し鄙びているなどあるかもしれないが私の耳には久しぶりの変化球でも即興でもない、ほんとのボレロが聴こえてきた。音量変化はわりと最初から大きめだが、終盤で想像以上にでかくなるので問題なし。リズムは重めというか少し落ち着いたテンポだが、むしろこれがボレロだろう。耳のお口直しにおすすめ。
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☆グラズノフ:闇から光へ

2017年08月04日 | グラズノフ
○ラフリン指揮ソヴィエト国立放送交響楽団(melodiya)LP

ちょっと特殊でかなり陰鬱な曲想から始まる。グラズノフで短調というのはたいてい序奏部か緩徐楽章の雰囲気作りに意図的に挿入されるのみで基本的に楽天的なのが持ち味なのに、この曲はショスタコが8番の2楽章を評した以上に暗く、また西欧的な雰囲気を持っている。グラズノフとは思えないくらいで、ロマン性がなく、かといって前衛的でもない、とても魅力が無い。だが、「闇から光へ」の展開はさすが、やっぱり計算であったのだ。最後はいつものグラズノフの盛り上がりで終わる。15分程度の小曲だがラフリンはやりすぎもせずかといって保守的ではけしてない、ロシアっぽい演奏を繰り広げている。

※2006/12/1の記事です
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ディーリアス:ピアノ協奏曲

2017年08月04日 | Weblog
フォーク(P)デル・マー指揮RPO(UNICORN)1991版・CD

いかにも古臭い曲で両端部で少し妖しい和声が世紀末ディーリアス感をかもすほかはほとんど前時代の遺物、すなわち同時代に世にあふれていたであろう二流作曲家のロマン派協奏曲ふうである。どこかで聞いたことのあるような代物で、これの原総譜が返却されないことに怒っている代筆書簡を持っているが、なんでこんな曲にすでに個性的作風を確立していたディーリアスがこだわったのか理解不能なところもある。新しい録音でも、これが単一楽章のまとまった曲でなければ聴いてられない・・・と私は思う、そういう曲である。
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ミヨー:交響曲第4番

2017年08月04日 | Weblog
フランシス指揮バーゼル放送交響楽団(CPO)CD

新しい録音は珍しいミヨーの大交響曲なのでこの全集は貴重。革命歌等に彩られた派手で聴きやすい一楽章、四楽章を持つだけにミヨーの大交響曲でも一番に推せる曲、自然に聴こえるよう精緻に整えられた複調性の響きや絡み合う構造的なリズムは入門編としても完全である。交響曲におけるミヨーが牧歌の延長ではなくしっかり西欧的な交響曲をフランスの現代作曲家として四楽章制で書ける人だった、その才人ぶりを知るにも好都合の一枚だ。
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ハチャトゥリアン:ヴァイオリン協奏曲

2017年08月03日 | Weblog
ジョドリー(Vn)ミュンシュ指揮ORTF(ina他)1954/6/19ストラスブール祭live

Amazonデジタル配信とina.frは記載曲名が違うがまったく同じもの。ムラヴィンスキーのコンサートの代わりとして決まった割にはさすがミュンシュといった完成度で、ハチャトゥリアンがじつにやりやすく書いていて、ソリストも相当の腕前であることを念頭に置いても、聴き応えは満点だ。ミュンシュ向きの曲だし、ソリストも強靭に、荒々しくすべきところは音を掠らせて、冒頭から最後まで弾きっぱなし、単線的な細かい音符の数珠つなぎでオケを引っ張っていく。大ブラヴォが出てしかるべし、ハチャトゥリアンがソヴィエトにありながら個性をどう保ちアルメニア民謡をコダーイでもバルトークでもない古来ロシアのやり方でもない形で一般人に届く音楽に仕立てたのか、よくわかる。バッハの無伴奏がアンコール。こちらは何も届いてこない。ミスもひどい。
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