湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:バッカスの勝利(作曲家による連弾版)

2018年04月10日 | Weblog
イヴァルディ&ノエル・リー(P)(ARION/warner)CD

神話的題材はいかにもこのころからのちフランスの作曲主題になるものだが、この曲は初期の「交響曲」などとともに作曲されたものでロシアのクーチカの楽曲のような古風なロマンの風をのこす。印象派の新しい絵画よりベラスケスなど古典的な絵画世界に通じるしっかりした印象をあたえる(そういう意図だろうから良い)。ただし明るい響きや軽やかな動き、それは色調の変化に欠けいささか長すぎる感じもするが、とにかく小組曲に至る道筋をはっきり示し、ロマンティックな音楽からの離脱を宣言している。編成は管弦楽によるものもあったといわれるが、編曲され演奏されることもあるが、ピアノ連弾で十分の内容である。演奏的に難しい部分もなかろう、ヴィルトゥオーソ好きする技巧的要素がないので著名演奏家が取り組まず忘れ去られた作品になっていたのかもしれないが、このコンビの演奏なら十分。ちょっとおとなしいが曲の散漫さ(3楽章と、4楽章の二つの断片を除く部分が失われているので尻すぼみ感は仕方ない)をここまで聴かせるようにまとめたのは素晴らしい。じつに明確な二人の高低役割分担、高音が左から聞こえるのはふつう?とまれ、全曲だったら飽きてるかもしれない、この程度でよかったのかもしれない。これが初録音で、譜面もノエル・リーが編じたようである。
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ドビュッシー:神聖な舞曲と世俗的な舞曲(作曲家二台ピアノ編曲)

2018年04月08日 | Weblog
ラペッティ&ダメリーニ(P)(warner)CD

工夫の施された編曲なのだが演奏が硬質で柔らかな抒情に欠ける。しかしそういう編曲、楽器なのかもしれないし、そもそもハープのコンチェルトをピアノにやらせるのは無理がある。先入観なしに聴けば唯の旋律音楽として楽しめるかもしれないが、華麗に弾き上げる箇所もあるのだが、この曲は原曲が出来過ぎている。
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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(ラヴェル連弾ピアノ編曲)

2018年04月08日 | Weblog
アルマンゴー&ショーズ(P)(warner)CD

作曲家自身による二台ピアノ編曲にくらべると地味である。ラヴェルの職人性がただ発揮されただけの感もある。二台ピアノ編曲の幅広い表現は一つの鍵盤という制約下では求められない。非常に縮められた、いかにもオーケストラ曲のピアノ編曲という感が否めない。奏者のレベルとも言えない、アンサンブルはむしろこちらのほうが上に感じる(隣りに座っているのだから当たり前だが)。比較して聞かなければ、これはこれで楽しめるのかもしれないけれど。遊びがない。
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ドビュッシー:牧神の午後への前奏曲(作曲家二台ピアノ編曲)

2018年04月08日 | Weblog
ベロフ&コラール(P)(warner)CD

warnerの全集にはラヴェルによる連弾版とこの本人による二台ピアノ編曲版が盤をまたいで並べられており中々のマニアックぶりである。オーケストラ曲はまずピアノ譜で初演されることなどよくあり、本人の編曲は作曲家としてインスピレーションを得たからというより実用的な意図をもって作られることのほうが多かった。編曲というより原曲である。だが二台ピアノとなるとそれはそれで大規模であり、楽曲普及のためにはラヴェル版のような1台で済む編曲がなされて然るべきで、これは聴けばわかるがコンサートピースとして創り上げられた娯楽作品とみなすほうが妥当な気がする。ロマンティックな曲を非常に華麗に響かせて、音域を広く使ってオーケストラ版にはない名技的なやり方も織り交ぜている。トレモロが眩しい。派手で、たしかにドビュッシーの満を持して発表したピアノ曲群に比べると陳腐な部分の存在もいなめないが、小組曲の世界からも脱し、新時代の扉を開いた作品のピアノ化版としてはなかなかの出来ではないか。すこし二台間に空気を感じるが、この全集内では名が通ったほうのソリスト達、さすがという聴き応えである。
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ドビュッシー:管弦楽のための夜想曲(ラヴェル二台ピアノ編曲)

2018年04月08日 | Weblog
クームズ&スコット(P)(warner)CD

一楽章は前奏曲集第一集にでも出てきそうな気だるい小品として聴ける。あるいは「金魚」のような雰囲気、ジャポニズム的な音階が剥き出しになっていて、ドビュッシーに欲しいものを楽しむことができる。編曲の腕も何もないような曲だが、やはりラヴェルはうまく響かせるように編んでいるかな、と思って「祭」に入るとこれがまた、「いかんともしがたかった」感。このプレイヤーのコンビネーションの問題もあるかもしれないが、単純なお祭りを表現するのには音が無造作に重なりすぎ衝突して耳障りが悪い。ラヴェルらしいところでもあるのか。これはいただけなかった。ピアノニ台だけなので音が冷たく硬く感じるのも、もしくはプレイヤーが醒めすぎているのかもしれない。不可思議なシレーヌは三曲中もっとも凝っていることをわからしめる見通しの良さと、ピアノ曲としても十分通用する聴き応えがあり、合唱まで伴う大曲を凝縮するとここまで創意がこめられていたのかというものだ。ドビュッシーとラヴェルの接点を見る思いでもある。共に違う実験性を志向したが、根っこはドビュッシーが作り、ラヴェルはよりメカニカルに現代化していった(そこにサティの示唆も含まれる)。それがさらなる新しい作家に継がれてゆく。この曖昧模糊とした曲の孕む多様性が、ドビュッシーふうに浮遊する和声とスクリアビンのようなトレモロやアルペジオ、そこに無調を目指すような不可思議なメロディの揺らぎ、ちょっとびっくりするほど前衛性が抉り出されていて、これは原曲とは別物として楽しめる。演奏は残響が多すぎるのもあって見事とは言えないが、珍しい録音としての価値は大きいだろう。この曲を見直す良いサンプルであり、ドビュッシー最盛期の才気のさまをまざまざと見せつけるものであり、ラヴェルの職人的な域をこえた素晴らしい仕事に、ラヴェルマニアも聴くべき作品である。終わり方が残響なしのトツトツとした音なのはサティを思わせニヤッとする。
Comments (2)
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ドビュッシー:三つの交響的エスキース「海」(カプレ二台ピアノ編曲)

2018年04月07日 | Weblog
アルマンゴー&ショーズ(P)(warner)CD

私は近代大曲のピアノ編曲が好きではない。大編成のオーケストラの、楽器の特性を無くしただの音符に還元してしまう行為は音楽を音に戻す行為に等しいとすら感じる。それとは別に例えば惑星のピアノ編曲など「別物として楽しむ」ことは可能である(但し惑星はピアノ版で初演された、娘イモーゲン氏と親友RVW臨席だった)。これもそれと割り切れば楽しいが、ここまで精妙に豪華に出来上がった音響を、ピアノが万能楽器であるとはいえ、ドビュッシー自身が優れたピアニストでこの作品もピアノを使って作曲したに違いないとはいえ、四手に縮めてしまうのは無理がある。まず、ドビュッシーのピアノ曲に求めるものをここに求めてはならない。これはピアノ曲として書かれたものではない。また、管弦楽の海をここに求めてはならない。低音楽器の轟きも響かず、弦楽器の有機的なフレージングも楽しめず、ここには漣しか立っていない。そして、これは言わずとしれたドビュッシーの盟友にして使徒キャプレによる編曲ということ。キャプレの作品は必ずしも明るいものばかりではないが、デーモンが感じられない巧すぎる編曲をするところがある。端正で単純なのだ。演奏のせいかもしれないが一楽章はあまりに音が弱すぎて、二台であることすら忘れてしまうほどだった。ニ楽章からはメリハリがついてドラマを演じ始め、ブラスや弦楽器では無理な高速連打を聴くとドビュッシーはピアニストとしてこういうものを想定していたのだなと納得させられる。実際そういうふうにブレなく攻撃的に吹くトランペッターがいたら聴いてみたい。このスピードじゃ無理だけど、、、という、管弦楽に無理なスピードを実現しているところは楽しめる。三楽章のラストなど「動物の謝肉祭」みたいでなんだかしまらないが、編曲にすぎないのだこれは、と思うしかない。何も考えずに聴けば、ただの旋律追いで聴いていれば楽しめるだろう。私は楽しかった。
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マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2018年04月06日 | Weblog
スヴェトラーノフ指揮スウェーデン放送交響楽団?(FKM)1999/2live

オケ名不詳だが時期的にベルワルドホールからの放送エアチェックか良好なインホール録音か(概ね透明感があるところに残念ながらノイズが結構ある、とくに右)。録音状態は良いステレオ。音場も広い。一楽章冒頭からやや穏健で、斬り込むような表現はない。スヴェトラーノフの円熟ぶりが伺える。発音に独特の力感があるほか意外とまっとうで、提示部繰り返しも気にならないほどすんなり聴ける。まっとうさはそのまま後の楽章まで引き継がれる。変な山気は無いが、そのぶん精度が高く現代的で、真摯な印象を与える。爆裂、のような表現を私は好まないが、これを聴いて爆裂と評する人はいないだろう。90年代中期の9番のときだったか日本人にマーラーを教えてやる、と時代錯誤を口にした御大が(4番カット全曲の世界初録音は近衛秀麿)、当時の歪んだマーラーではなく、緻密に構成され整えられた悲劇的というドラマを演じているのは感慨深い。オケが無個性なせいもあるかもしれない。四楽章、ガシャーンとやる響かせ方、ホルンの咆哮にスヴェトラーノフらしさは残る。しかしどうも真面目だ。弦楽器はおとなしいし(スウェーデンとしたらやや技量の問題もあるか、ホールのせいもあるか)、ペットも突出しない(ミスが目立つので技量か)。木管は清潔だ。オケにちゃんとやらせすぎである(それでいいのだが)。10年前の2つの録音とは違う。テンポも恣意的に揺れることはまったくない。それでもドラマティックなうねりはさすがの板の着き方で、テンポも音量も変化の付け方は自然にうまい。音量ピアノの響きのイマジネーションは晩年スヴェトラーノフ特有のものだろう。打楽器類を使ったマーラーなりのサウンドスケープが明確に見える。英雄を打ち倒そうとする木槌の音の凄さにもスヴェトラーノフの欠片は残る。行進曲で縦が怪しくなるとやっと、スヴェトラーノフだと思う(失礼)。このあと右からかなりひどいノイズが入るが仕方ない。音量が上がると目立たなくなる。二度目の木槌でドラマは悲劇的な方向に振れてゆく。二度目の冒頭再現からやがてこの曲最高のサウンドスケープへ。(またも右のノイズが…)コーラングレにカウベル。懐かしさより不安が勝るリアルな雰囲気から、コンマスソロよりクライマックスへの前向きの曲想が提示されるが、ここでヴァイオリンのアンサンブルの乱れが惜しい。というかオケ全般に疲れて乱れる。ドガシャーンで録音の右が撚れるのも惜しい。しかしまた正攻法としか言いようのないスヴェトラーノフ、どうしちゃったのか、というより結局こうなったのであろう。ブーレーズのようなものだ。しつこいアンサンブルが畳み掛けるようなフレーズとともに繰り広げられ終末へ向かう。ヴァイオリンやブラスが復活してきていて、バランス良くなる。変なソロミスもあるが、いきなりの独特パウゼから偽物のフィナーレへ向けてやっと、スヴェトラーノフクライマックス(音符の引き伸ばし)、で、英雄は突然死し、冒頭の再現から低音ブラスによる挽歌。まあこのあたりは付け足しのようなもので、しかし、スヴェトラーノフはしっかり吹かせている。沈黙から、ドガシャーン、あまり重くないティンパニ、低音ピチカートで完結する。ブラヴォを叫びにくい曲だがブラヴォが散発される。指揮者へのものだろう、演奏はそこまで個性的ではない。拍手は割と普通のように思えたが、五分を越えるのはやりすぎである(カットしていい)。これをスヴェトラーノフの悲劇的の最高傑作とする人もいるそうだが、マーラーらしさの点ではそうかもしれない。私はオケに不満があった。
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プロコフィエフ:交響曲第5番

2018年04月05日 | Weblog
ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1955/5/8シアトルlive

重い。充実していると言えば聞こえはいいが、響きもリズムも重い。四楽章のテンポの遅さ、硬直した造形は何だろう。徹頭徹尾インテンポを保っている、そこにリズムの跳ねもほとんどなく、ミトプーらしくない客観主義である。フレージング、歌い回しはニューヨーク・フィルらしい素晴らしさがあるが、もう鈍重で四角四面のテンポに無理して合わせているかのようだ。ミトロプーロスのロシアソヴィエトもので、このくらいの規模の曲に良い録音は無い気がする。小品は抜群なのだが。。録音のせいで鄙びて貧弱にも聴こえた。全楽章私には合わなかった。オケが可哀想。少しブラヴォが聞こえたか。しかし爆発的反響はない。
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ピエルネ指揮の動画集

2018年04月05日 | Weblog
音だけですけど、こちらにまとめました。→
岡林リョウの普通ブログ
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イシャ・クレイチー:管弦楽のためのセレナータ

2018年04月04日 | Weblog
アンチェル指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送管弦楽団(SWRclassic)1967・CD

アスラエルとのカップリングだが、アスラエルとは対照的に能天気。新古典主義にのっとったというより、民族主義みたいな古い印象を与える。アンチェルだからテンション高く、しかし即物的に煽っていくが、直前のアスラエルとの落差があまりに大きく、楽しめなかった。逆に収録したらよかったのに。
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スーク:アスラエル交響曲

2018年04月04日 | Weblog
アンチェル指揮バーデンバーデン南西ドイツ放送管弦楽団(SWRclassic)1967・CD

デジタルリマスター盤だが決して良い音ではない。セッション録音なのでステレオではある。録音の雑味がアンチェルの持ち味としての張り詰める緊迫感を引き立てるが、それ以上にスークの転換点になった世紀末音楽としての同曲の、中欧的な爛熟を清潔な音色で綺麗に仕立てあげ、とても美しい。灰汁抜きされたようなスヴェトラーノフのそれよりは生き血が通っており、長い曲ながら力づくの解釈ではなくとも聴かせることに成功している。ファンの多い曲で民族的表現や多々のメロディといったところが入りやすさになっているが、適度に熱し適度に突き放した距離感で聴ける演奏だろう。作曲家の義父ドヴォルザーク次いで妻つまりドヴォルザークの娘の早すぎる死が題名の「アスラエル(この盤では交響曲とは書かず単にそうしている)」死の天使に投影されているというが、悲劇的な要素はあるが、アンチェルは自身もナチによって家族や友人を殺された壮絶な過去があるにも関わらず、変な情緒的なものは持ち込まず、このオケの冷たい響きを操り、リヒャルト・シュトラウス等の露骨な影響をメカニカルに組み立て聴かせてゆく。曲はグリエールのイリヤ・ムーロメッツに似て(構成や構想には実際似たものがある)退えい的に終わるが、ここはすこし断ち切れたような宙ぶらりんの感じがした。二部構成の5楽章という形はマーラーの三番やスクリアビンなど想起させるが時期的にはほぼ同時もしくは少し遅い程度か。作品的に比較的若い頃のもの。
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カバレフスキー:コラ・ブルニョン序曲

2018年04月03日 | Weblog
ミトロプーロス指揮NYP(SLS)1955/5/8シアトルlive

この時期にしては貧弱だがミトプーのものとしてはまずまずのモノラル録音。カバレフスキーの代表的な小品でここでもコンサートのラストに置かれブラヴォを呼んでいる。そういう、盛り上がる曲であり、チープな雰囲気はとくに緩徐部のテーマに顕著だが、これはカバレフスキー作品全般に言えることで、両端部のショスタコーヴィチそっくりの骨ばった攻め方にこそ本領があらわれている。トスカニーニはこれをアメリカのオケを使って「チープにならないように」ドライに聴かせてそれはそれで良かったが、この演奏は素直に楽しい。ジャズ風のリズム処理も違和感なくすべてカバレフスキーのものとして融和させ、それを楽しげな「アメリカ音楽」として描いている。僅かな雑味など気にさせないほど集中力が高い。音楽自体の出来の良さもあってウォルトンの「ポーツマスポイント序曲」を思わせるフレーズも、同曲がもつ一種居心地の悪さというか、まとまりの悪さとは隔絶して聴きやすい。反面個性の面で同時代音楽ひいてはソヴィエト音楽のイメージに沿いすぎて、突出した感はないが、この曲が代表作となったのは「絶妙なチープさ」にあろう、それこそ大衆に受ける重要素である。ミトプーはわきまえて、トスカニーニとは異なる大衆受けするドライヴをかけて、成功している。
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プロコフィエフ:ヴァイオリン協奏曲第2番

2018年04月01日 | Weblog
フランチェスカッティ(Vn)ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(SLS)1956/4/30live

プロコフィエフの才気の衰えを感じる職人的晩年作で正直あまり好きではないがミュンシュはこの他にも演奏録音があるしわりと同時代記録の多い作品である。平易過ぎるというかプロコフィエフがセルフパロディをしたかのようなマンネリ感も滲み出す楽曲は、しかしソリストにとっては最初から最後まで無理なく技巧を見せつけられる曲となっていて、一番のような特殊な面白さではなく、構成された新古典派作品の中での正攻法の面白さを存分に伝えることができる。フランチェスカッティは美音で知られるがその細かいヴィヴラートに埋め尽くされた音は逆に慣れてくると飽きてくる。音色変化を魅せる点でいささか難しい音なのである。しかしこの曲のうまいことできているのはソリストの安定感を詰まらなさの方へ持って行かせない、要所要所で変化を入れて、民族的な激しい動きもあくまで必要なだけ絶妙に入れている。いつも飽きるフランチェスカッティの音がプロコフィエフの体制に沿った作風になぜかマッチしている、この曲でバックオケはそれほど重要ではないけれどミュンシュはほとんど地を出さずむしろ無機質に振っている、それがフランチェスカッティをさらに引き立てる方向に成功している。フランチェスカッティのボウイング、華麗な響き、でもそれしかない、でもそれしかなくても大丈夫なようになっているのは、作曲家、バック、それぞれの配慮によるものだろう。明らかなミスはわたしは一箇所しか聴こえなかった。大ブラヴォの終焉。二楽章に強い撚れノイズあり。
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ラヴェル:ラ・ヴァルス

2018年04月01日 | Weblog
プレートル指揮クリーヴランド管弦楽団(SLS)1967/3/30live

エキセントリックさは感じず、かといってこなれた演奏とも感じない。後者感想はしかしむしろプレートルの後年までの個性でもあるだろう。下手という意味ではないのだ。オケが明晰なクリーヴランド管弦楽団ということもあり、指示の軋みや雑味が音に出やすい。セルでさえ完璧主義といいながらミスのはっきり聞こえるライヴ録音がわりと多いわけで、プレートルならなおさらか。正直デルヴォー的なものを求めたら期待はずれだった。アメリカオケの音にこの人は合わないのか。。
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