湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

シベリウス:交響曲第1番

2018年06月08日 | Weblog
マルコ指揮シドニー交響楽団(SLS)1960/12/2live

セッションもしくは放送用録音かという音質。モノラルであるもののマルコにしてはノイズレスで聴きやすく、迫力がすさまじい。マルコの演奏は莫大になるか偉大になるかの両極端で、著名オケだと前者になりがちで正直遅くて客観的なのに部分的に激しいというロシアの悪い流儀を踏襲したような演奏になることが大曲では多い。この演奏は完全に後者である。序奏から主題提示よりぐいぐい引き込まれる。ダイナミズムに満ち溢れ、ハープまでが強くひびきイマジネーションを刺激し、何より構成が素晴らしくこの曲は十八番だったのではないかとまで思わせる。1楽章はどんな演奏でもよく聞こえるのだがこれはしっかり四楽章まで大きな構築がなされたうえで、激しい起伏が滑らかに織り込まれており数珠つなぎでどんどん聴かせてしまう。いや、こういう演奏があるからマルコはいい。おまけのフィンランディアは弦楽器が打楽器につぶされて聴きにくいのでフィンランディアよりこちらのほうがフィンランディア的感興を得られるだろう。
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ヒンデミット:「気高き幻想」組曲

2018年06月07日 | Weblog
カイルベルト指揮ハンブルグ・フィル(ICON/warner)CD

もっさりと重くて鈍臭い、客観性すら感じさせるカロリーの低さと雑さ、はヒンデミットの低音域の書法のせいなのだ。ヴァイオリンなどがリズムを刻むときの愉悦感たらなく、それはカイルベルトがこのCDでは直後に収録したウェバ変での素晴らしくキレキレな拍節感に通じるものである。この曲では両極端のカイルベルトがあらわれているようにも感じる。ドン臭さ=ドイツ臭さでもある。その重厚なスケールは、同曲をやたらと振ったモントゥーには無い。むしろこの三曲ではコンパクトにヒンデミットの日和振りを楽しむべきだとすら思わせてきたのが、ここはスルーでいいやと思うフレーズのそれぞれにきちんと役割があったことに気付かされる。最後はシンフォニーを聴いたような感想。まあ、オケに雑味、というかカイルベルトの振るオケはわりと雑味があるので、こだわらない人だったのかもしれないが、冒頭の印象はそれで正しかった、ということでもないだろう。
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スクリアビン:交響曲第2番

2018年06月07日 | Weblog
○スヴェトラーノフ指揮ソヴィエト国立交響楽団(youtube)1988モスクワ音楽院大ホールlive(動画)

ソヴィエト末期でまだ楽団が万全であり、スヴェトラーノフも精力的に振りスケールの大きさよりもドラマティックで力強い音楽を志向していた時期で、この曲が得意でロシアン・ディスク(今は他のレーベルで出てる)がほぼ同時期のライヴをCDにしているがそれはこの曲のベストと言える素晴らしい演奏であっただけに、それに良好な映像が加わっただけで、多少音が貧弱でも脳内補完十分な見ごたえのあるものだ。とにかく来日してチャイコばかりやっていたとき指揮台を揺らした紅い扇風機もここにはないし、和製評論家に批判された「振るのをやめる(オケに任せる)」こともあまりしない(終楽章で謂わばドラクエ的なゲーム音楽と化すのだが、そこで軍国調に厳しい顔をしたあとはスコアを捲りながら振ってない。これは再現部で繰り返されるのでそういう約束なのだろう)、思い入れが凄いのかもしれないし、この時期のメインのレパートリーだったのだろうが、背筋が伸びている、このんだという(もう命尽きる頃だが)バンスタ張りの両腕の大振りは、別に見栄えを良くしているわけではなく、ほんとうにしっかり振りたかったのだろう。オケがこれだけ一体となって、しかも個々が技量を存分に発揮して、満場に響かせる…この曲では中間楽章、いやスクリアビンの全曲中この楽章はワグナー風のゆらぎを持つ旋律の恍惚感をもっと透明にカラフルにメロディアスに歌わせることのできる最良のファンタジーであり、その最高の録音者がスヴェトラーノフその人なのだ…スヴェトラーノフは棒に乱れをきたさず冷静な手付きを崩さない。「恍惚をすべて掌中に収めている」。音楽は物凄いファンタジーなのである。スクリアビンは意図的にユニゾンを多用し、スコアはわりと白いが、こういうふうに演奏できるというのはスクリアビンが凄いのもあろうが、スクリアビンの楽器法が面白いのかもしれないが、いや、スヴェトラーノフだからできた、西側流出がいよいよ酷くなってくる直前のソビエト・アカデミーの演奏だからこそだろう。ロシア式ブラスの大軍に包まれ全弦楽器がとことん歌う、本気の打撃で援軍を送るティンパニ、映像だとこのまとまりある響きの正体がよくわかる。弦楽器は中高年が多いように見える。それでしかできないこともあったのだと懐古する。また、後年スヴェトラーノフが響きに拘った源がこの時期までのソビエトのオケの力量を前提としていたのではないかとも感じる。さびしげなフルートなど、ソリストの技量ももちろんあるのだけれど。カメラアングルでだいたいこの曲の単純性、ティンパニ入れとけばいいとかそういうところが見えやすいのはアタッカで入る四楽章(アーチ構造の後半)。千両役者という皮肉な言い方は音楽家に失礼だと思うがそう言われても仕方ない感情的な振り方は後半の方が顕著になる。弦楽器の強いフレージングのまとまりがソビエトを思い起こさせる。無数のホルン、多いわけではないが吹きっぱなしのボントロ、やたら映るチューバ、音だけ異常に聴こえるハスッパなペット、それらは映像ではあまり捉えられないが、編成の大きさを象徴する。ゲーム音楽と言ったが、これをカッコいいと捉えられる人にはこれは名旋律だろうし、ブラスが目立つのはここで、他は木管ソロの断片を除けばほとんど弦楽器。弦楽器のところはちゃんと振るらしく最後は汗と乱れ髪で仲間を労いブラヴォに包まれあらためて、両腕を拡げて律儀なお辞儀、再度のコンマス握手。律儀なお辞儀。国家的云々はともかく本来評価されたのはこのスヴェトラーノフであり、歯抜けを若手で補ったオケを引き連れ出稼ぎに来たスヴェトラーノフではないのだろう。まあ、他国で呼ばれるような巨匠とはそういうものだ。しかしこの曲でここまでまとまったオケによる映像は無いだろう。今後もこのレベルのオケで収録されることはないだろう。。ソースがわからないが恐らく放送物なのでネット配信をレーベル名としておく。音質をマイナスして○(画質はこのての配信物としては最良)。
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マーラー:交響曲第6番「悲劇的」

2018年06月05日 | Weblog
バルシャイ指揮読売日本交響楽団(TOBU)1989/11/25live・CD

だいぶ遅くなってしまったが聴いた、バルシャイらしい引き締まったアンサンブルに、揺れない、無骨な表現、切り裂くように激しく、しかし正確な音、このころロシア系指揮者というと巨匠系のスヴェトラーノフが丁度悲劇的に連続的に取り組み(ドラマティックでロマンティックかつかっちりしたこの曲はグズグズにもなりづらくマーラーではスヴェトラーノフ向きに思われがちだ)話題になりつつあったが、じつは悲劇的の価値をしっかり引き出しているのはこの時点ではバルシャイの方だったと思う。計算的だがとても個性的な、意志的な解釈はスヴェトラーノフよりよほど板についている。ロストロポーヴィチが指揮者としてショスタコーヴィチに取り組んでいたようにバルシャイも当然取り組んでいたが、室内楽団イメージのせいか小粒感を持たれがちで、でも、ショスタコーヴィチが類似性を指摘されるマーラーにおいて、コンドラシンによく似たスタイルで、しかしもっと煽情的にあおりたて、このオケにここまでの精度、迫力、艶を出させたのは見事。散見されるミスなどどうでもよくて、四楽章後半、偽物のクライマックスが何度も訪れるあたりは50年前なら歴史にちゃんと残った録音であったはずである(現代は色々難しい)。音場の広がりがなく、空間的配置がなされるカウベルなどの効果も薄いがこれは録音、ホールのせいだろう。しかしバルシャイなのだ、乾燥した集中力、しかしそれにとどまらないドラマの壮麗な演出を聴いて、スヴェトラーノフの白眉が6番などと言わないでおこう。スヴェトラーノフは3番、7番を振る指揮者だ。それにしても弦楽器は上から下まで、ここぞの艶めいた音色が良いなあ。難曲を最後までやりきったオケに拍手。ブラヴォは一声だけ、拍手が雑で少なめなのは当時まだ曲に馴染みがなかったからだ。ベルティーニによってやっと聴かれるようになったところである、日本では。アマチュアがやると練習を聴きに来る評論家がいたくらい。
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プーランク:グロリア

2018年06月05日 | Weblog
アラリー(sp)ミュンシュ指揮モントリオール交響楽団他(SLS)1965/3/31live

初演四年後の演奏。ミュンシュのカナダライヴなど珍しい。二枚組だが残念ながら私の守備範囲ではこの曲プラスくらいしか聴くものがない。そして録音状態も悪い。ただ演奏自体もそうなのだがこの曲がプーランクのいわゆる世俗音楽的側面とは対極にある真摯な、しかしわかりやすい宗教曲の再現を目している。この晩年のミサ曲はクーセヴィツキー財団による委属で、輝かしいテクストを忠実に反映し、非常に洗練された無駄のない適切な書法でとても前向きな印象を与える(ただし2曲目は世俗的すぎるとして糾弾され作曲家自身も自覚していたという。またヴィヴァルディが下敷きだそうである)。合唱の担う部分が大きく、フランス語韻律へのこだわりはいささかわかりづらいが分析的にはよく読み取れるらしい。しばしばみられる他作品からの影響があり、派手な1曲目はオネゲル前期のダビデ王を思わせるが手法的にはストラヴィンスキーといわれるし自作引用もある。歌謡的ではないのだが、それに近い純粋な美しさをもった曲がつづく。5曲目では作曲の6年前に亡くなったプロコフィエフ的な一節が織り交ざるがこれも尊敬していたというプーランクらしさであると同時に、時代性を色濃く反映したこの時代の穏健作曲家たちの作風を象徴するものでもあったといえそうだ。終曲は1曲目に立ち返るように輝かしく、シンプルなオケにゴージャスな合唱、歌唱が印象深い。音楽は昇天で終わる。ミュンシュはとても手際よく集中し、また、板についているし、演奏陣もこなれている。
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アルベニス:「イベリア」~Ⅱ.セビリアの聖体祭(アルボス管弦楽編)

2018年06月04日 | Weblog
ロジンスキ指揮NYP(SLS)1945/11/18カーネギーホールlive

ロジンスキには非常に珍しい演目になる。ピストンのシンフォニーのあとで派手に派手を重ねる感があるが、むせ返るような響きの華々しさと見事な編曲の引き締まった再現がロジンスキらしくも、ロジンスキらしくなくもあり、とても良い。末尾のイマジネイティブな光彩の表現をきくとこの人がなぜレスピーギを振らなかったのか疑問におもうほど綺麗だ。ロジンスキの腕をたしかに感じさせる。
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ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲第5番

2018年06月02日 | Weblog
ロジェストヴェンスキー指揮ソヴィエト国立文化省交響楽団(melodiya)live・CD

生生しく鈍臭い昔のソビエトオケによる田園音詩。しかし、そんなオケの、指揮のぎこちなさを微塵も問題とさせないこの音楽の持つ強さは果てない。音の少なく起伏の緩やかな中にも、はっきりとそこに限りなく切なく、切なく望む平和な世界、柔らかな光に包まれ黄金に揺れる大地のどこまでも平和であることを告げる雲雀が、もうそこにはいないのだ、もう戻っては来ないのだという想いの詰まった作品は、瑣末な演奏精度、俊敏で完璧な表現など要求していない。ロンドンの瓦礫の向こう側にさす薄墨の日差しに昔見た南仏の包み込む陽を夢見ている。田舎の祭りを思わせる四楽章はその平穏な裏の虚無を示す曲のおわりに初めてストレートにロマンティックな性向を示すが、ここでのロジェストヴェンスキーの大きな心のゆらめきは音楽のしっかりした起伏となって、交響曲という形式的なもののフィナーレをしっかり演出している。これはすべてただ共感し、想い、望み、思い出すことを喚起さえできればよい曲なのだ。ロジェストヴェンスキーはそこをわかっている。荒い全集の中でこのヴォーン・ウィリアムズ一番の人気交響曲においては、それが何なのだと言わんばかりで、弱く薄い弦楽も静かに泣き、最後には強力なブラス(だがこの演奏では抑制的である)とともに、数々の思い出を暗く孕みながらも、ついには、たとえ妄想だったとしても喜ぶことができることを信じている。ヴァイオリンの非常な高音により繰り返されるメロディは希望を象徴する。演奏は一声のブラヴォで終わる。第二次大戦直前より構想され、終戦前後に完成した作品である。
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