想風亭日記new

森暮らし25年、木々の精霊と野鳥の声に命をつないでもらう日々。黒ラブは永遠のわがアイドル。

ふたつ名 2

2008-10-23 01:33:31 | Weblog

    唐突だけど名前で思い出した、ちょっとおもしろい話。
   一般に読まれているのは記紀(古事記、日本書紀)だろうが、
   それより旧事本紀(72巻本)のほうが詳細に神名が出てくる。
   そして、神名には一つの法則があることをわかって読めば、
   書かれている意味がわかってくる。

   神名とは、どういうハタラキをしているかを表しているのである。
   一つの流れ上で、ハタラキが変化していく。すると名も変わっていく。
   ふたつ名以上である。

   名が変わって別の事がついてあるように思うと、意味をなさない。
   これがわかれば、読み解いていきやすくなるのである。
   同じ訓みをしていても宛字が違うことがある。
   それはハタラキが変わったからということで、「降る」くだるたびに
   名が変わる。

   天思兼命→天八意命 くだってハタラキは細分化される。
   物質界でいえば、くだって眼に見える方へより近づく。

   ハタラキそのものの意味がわかれば、わかる話なんである。

   旧事本紀に記された神名は、〈あがめたてまつる偶像のような偉大な神〉ってイメージを
   捨て去って読むべしで、皇統連綿の史観はこの際要らない。
   それがあるだけで最初からけつまずいて、立ち上がれない。
   つまり意味不明になってしまう。




   先日の記事に古代史のことにふれたりしたが、旧事を研究し学ぶことは
   必ずしも歴史、古代史に焦点をあてているわけでない。
   ここに限っていえば、まったく違うと言ったほうがいいだろう。
   旧事にある神名で読み解いているのは、哲学、思想なのである。
   しかし、思うに歴史とは思想抜きで考えられるものでもないので、
   それぞれの史観に(いろんな学説に)、すくなからずその人の哲学は
   表れることになる。

   神話は、事物と現象がどうようになりたっているか、
   世界はどのように成立したかということ。さらにいえば事物の誕生。
   権力闘争の歴史物語という解釈から抜けられないのは、
   視野狭窄か、感性の問題なんじゃないかと思うんである。
   少なくとも千年以上も時を経た文献を読むのに、現代の感覚や価値観を
   基準にして、堂々と推量を述べたまうのはおこがましいというものである。

   そういえば偏狭な歴史観しかない考えをさして、南方熊楠は「思いやりなく」と
   言い、そのことについて西郷信綱博士は、
   「この思いやりは事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力
    という言葉に置き換えることもできる」と書かれた。(『古代人と夢』)
   ほっとするが、こういう考えの人は数少ない、稀である。

   古代を考えるに、いや古代という時代をさらに超え、時空さえ超えて考えるとき、
   「時代の文脈」とはいったいなんだろう。
   どうすればわかるのだろう。
   無為、ではないか、と思う。風に聴け、か。

コメント
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