唐突だけど名前で思い出した、ちょっとおもしろい話。
一般に読まれているのは記紀(古事記、日本書紀)だろうが、
それより旧事本紀(72巻本)のほうが詳細に神名が出てくる。
そして、神名には一つの法則があることをわかって読めば、
書かれている意味がわかってくる。
神名とは、どういうハタラキをしているかを表しているのである。
一つの流れ上で、ハタラキが変化していく。すると名も変わっていく。
ふたつ名以上である。
名が変わって別の事がついてあるように思うと、意味をなさない。
これがわかれば、読み解いていきやすくなるのである。
同じ訓みをしていても宛字が違うことがある。
それはハタラキが変わったからということで、「降る」くだるたびに
名が変わる。
天思兼命→天八意命 くだってハタラキは細分化される。
物質界でいえば、くだって眼に見える方へより近づく。
ハタラキそのものの意味がわかれば、わかる話なんである。
旧事本紀に記された神名は、〈あがめたてまつる偶像のような偉大な神〉ってイメージを
捨て去って読むべしで、皇統連綿の史観はこの際要らない。
それがあるだけで最初からけつまずいて、立ち上がれない。
つまり意味不明になってしまう。
先日の記事に古代史のことにふれたりしたが、旧事を研究し学ぶことは
必ずしも歴史、古代史に焦点をあてているわけでない。
ここに限っていえば、まったく違うと言ったほうがいいだろう。
旧事にある神名で読み解いているのは、哲学、思想なのである。
しかし、思うに歴史とは思想抜きで考えられるものでもないので、
それぞれの史観に(いろんな学説に)、すくなからずその人の哲学は
表れることになる。
神話は、事物と現象がどうようになりたっているか、
世界はどのように成立したかということ。さらにいえば事物の誕生。
権力闘争の歴史物語という解釈から抜けられないのは、
視野狭窄か、感性の問題なんじゃないかと思うんである。
少なくとも千年以上も時を経た文献を読むのに、現代の感覚や価値観を
基準にして、堂々と推量を述べたまうのはおこがましいというものである。
そういえば偏狭な歴史観しかない考えをさして、南方熊楠は「思いやりなく」と
言い、そのことについて西郷信綱博士は、
「この思いやりは事象を時代の文脈そのもののなかで見ることで、歴史的想像力
という言葉に置き換えることもできる」と書かれた。(『古代人と夢』)
ほっとするが、こういう考えの人は数少ない、稀である。
古代を考えるに、いや古代という時代をさらに超え、時空さえ超えて考えるとき、
「時代の文脈」とはいったいなんだろう。
どうすればわかるのだろう。
無為、ではないか、と思う。風に聴け、か。