オモローな顔、連続シャッターが降りる間に眼前にドドドッとやってきた。
やっぱり速いなあ!
それにこのアングルだと、ちょっと熊みたいだ?
森は乾いた晴れ間と午後から曇天という日が続いている。
一年のうちでは珍しい。どんどん秋が深まっていく。
誰かれ会うごとに、今年は雪が降るなあ、と言う。
そうか、雪多いか‥と、嬉しいような困るような、むずかしい気持ちになる。
一方、東京の仕事場から見える空は曇っていた。
森の奥みたいに薄暗いのだ。
秋の深まりは、こっちではあまり感じない。秋、だな、程度である。
今週は古典からきっぱり離れ現代の仕事に没頭するべく頭を切り替え中。
だがそうカンタンに戻れるわけでもない。
一年がかりのもあって仕上げるために集中しているのだが。
ニュースがいけない。
アホらしくて、呆れて、怒り気合いも通り越すのである。
こんなときにも、年寄りはエラいとふと思う。
こういう時代も生き続けて、こんなどうしようもない、アホとしかいえない
人間のサマをすでに何度も見てきたのである。
思いは人それぞれだろうし、あまり物を考えない人だっているにはいるが、
それでも本当のアホでいられる人はいないのではないだろうか。
表現の違いはあっても、人は心の奥底で感じることには大差なく、この空しさは
底の底のほうへ重く沈んでいくはずである。
母親が子どもを小2頃から学校へ行かせず中1からほぼ完全に監禁し続け、
発見されるまで8年間、誰も助けなかったという事件があった。
ネグレクト(育児放棄)というが、放棄ではなく誤ち(報道では精神障害だそうだ)。
情報化社会、でも都会のまんなかに埋もれてしまう人が実際にはたくさんいる。
人が人とつながっていきるから社会というのではなかったかなあ。
戦前からの隣組という言葉は、昭和3、40年代まで生きて機能していたと思うが
その後は敗戦の忌まわしさからなにもかも投げ捨ててきて、今あるものといえば
孤独があたりまえという状況だろう。
孤独って青い人が使うと甘いひびきにもなるが、怖いものである。
その怖さを知らないと一人前にもなれまい。
半人前くらいがバラバラに競い合っている。
苦い時代であるなあ、と曇天だとよけいにそう思う。
こんなときは、親分みたいに素早く走り抜けたくなる。
韋駄天走りしたくなる。
シボレーの自転車に乗って、青山墓地を抜け乃木坂、六本木の坂道を
サササッとその気になって(実際は急な坂道はノロノロ)走る。
ひとりきりの人、ひとりきりじゃないよ、声を出して
腕を振りあげ、走り出せ! と心のなかで思いながら。
切る風がもう冷たい。