りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

広島の空。

2009-08-06 | Weblog
広島市尾道町。

現在、この町は広島市内に存在しない。
今は周辺の町と統合されて、広島市中区大手町という町の
一部になっている。
広島市民ならば、NHK広島放送局の裏通り周辺と説明すれば、
どの辺りに存在した町か、大体分かってもらえるだろう。
今や人口117万人となった、広島市の都心のド真ん中だ。


以下に記した話は、今は亡き私の祖母が、子どもの頃、
私に何度も語ってくれた出来事である。
毎年8月になると、幼い私は、この話を聞かされながら、育った。
長い日記になってしまったが、もしよろしければ、読んでいただきたい。


今から64年前。
広島市尾道町には、祖母の姉夫婦(以下、姉夫婦)が暮らしていた。
姉夫婦と一人息子の3人家族。
必然的にその一人息子は、私の父の従兄弟(以下、従兄弟)にあたる。

1945年8月6日・月曜日。

姉夫婦の家には、その前日から広島市の東隣りの府中町に住む、
私の祖母の妹夫婦の夫とその娘が泊まりがけで来ていた。
この娘も必然的に、私の父の従姉妹にあたる(以下、従姉妹)。
従兄弟は、学生で、その日、勤労奉仕の予定だったそうだが、
体調が芳しくなかったそうで、勤労奉仕を休み、2階の部屋で寝ていた。
2階で寝込んでいる従兄弟以外は、みんな1階の居間で朝食を食べていた。
朝食と言っても、戦争末期の食料が枯渇しきっていた時期だったから、
やはりお世辞にも豪勢とは言えない、質素な食事だったそうだ。




その時、だった。




どれだけの時間が過ぎたのか、それはいまだに分からないそうだ。
最初に気がついたのは、府中町から遊びに来ていた従姉妹だった。
真っ暗闇だったそうだ。
どこが天井か、どこが地面か、どこが壁か、まったく分からなかった。
従姉妹は、この時、まだ自分が家の中にいるものだと思い込んでいた。
だが、少しずつ少しずつ、目が暗闇に慣れはじめると、周囲の光景が
おぼろげに見えはじめた。

暗闇に慣れた従姉妹の両目に映ったモノ。
それは、この世の風景ではなかった。
“景色に色がなかった”と、従姉妹は祖母に語った。

そのうち、うめき声のようなか細い男の声が従姉妹の耳に聞こえてきた。
聞き覚えのある声だった。
それは従姉妹の叔父、つまり姉夫婦の夫の声だった。
しかし声はすれど、どこにいるのかまったく分からない。
従姉妹は声を振り絞って、叔父を捜した。
「おじちゃん!おじちゃん!」
「ここじゃ・・・ここじゃ・・・」
呼べば、声はする。か細い声はする。でも、姿は見えない。
周りは瓦礫の海だった。
後に、従姉妹はその時の状況について、祖母にこう語っている。

“今思えば、爆心地のすぐ近く(約500m)じゃったけぇ・・・
叔父さんは家の下敷きになってたんかも知れんねぇ・・・”

姿の見えぬ叔父は、か細い声で従姉妹に言った。
“他のもんは大丈夫か?・・・◯◯は?◯◯は?・・・ワシは、
もうダメじゃ・・・目が見えんようになってきた・・・”
それが、叔父の最期の言葉になった。

どんなに周囲を捜しても、従姉妹は叔父を見つけられなかった。
叔父どころか、叔母も従兄弟も、そして一緒に遊びに来ていた、
自分の父親さえも見つけられなかった。
いくら従姉妹が名前を呼んでも、答える者は誰一人、いなかった。

そのうち周囲から火の手があがり、火勢が強まりはじめた。
人間もやはり動物なのだろう。本能が働いたのかもしれない。
従姉妹は無意識のうちに、その場から逃れてしまった。

どこをどうやって帰ったのか、従姉妹は今でも憶えていないという。
たぶん、憶えていないのではなく、思い出したくないのだろう。
従姉妹は、その日の夕方、尾道町から直線距離で約5km離れた
府中町の自宅に、なんとかたどり着いた。
たどり着くと、たまたま用事があって姉夫婦宅に行かず、一人で
留守番をしていた母(祖母の妹)が、ボロ雑巾のようになって帰って
来た娘を、号泣しながら抱きしめたという。

数日後、従姉妹の母は、夫と姉夫婦家族を捜すために、広島市内に入った。
広島市内には、まだ残留放射能が残っていた。
しかし、そんな事などもちろん知らない従姉妹の母は、一路、姉夫婦の家の
あった広島市尾道町へ向かった。
このため、従姉妹の母は、後に言う入市による“二次被爆”をしてしまった。

何も、なかった。

家はもちろん、遺体や遺骨、遺品のようなモノさえも、まったくなかった。
家があったはずの場所とその周辺は、“原子砂漠”と呼ばれる焼け野原が
はるか彼方まで広がり、街が消える前には姉夫婦の家から遠くにあったはずの
広島産業奨励館、後に“原爆ドーム”と呼ばれる建物が、おそろしく近くに
見えたそうだ。
結局、従姉妹の母は何も見つけられないまま、尾道町を後にした。

あれから、64年。

広島市尾道町は中区大手町と名前を変え、広島市有数のオフィス街へと
変貌をとげた。
しかし、姉夫婦、従兄弟、従姉妹の父の4人は、いまだに一片の骨すら見つから
ないまま、現在に至っている。

広島市西区に、三滝(みたき)という町がある。
広島市街に近く、古刹が点在する清閑な地区で、
そこには広大な墓地が広がっている。
その片隅に、今もひっそりと建っている墓がある。
祖母の姉夫婦の家の墓である。
一片の骨さえ見つからなかったが、それでも墓を建てた。

10数年前の夏。
私は初めて墓参した。
夏だというのに、背筋が凍った。
霊園に並ぶ数え切れないほどの墓。
その墓のほぼすべてに、“昭和20年8月6日原爆死”と刻まれていたのだ。

蝉たちが鳴き止まぬ霊園をゆっくりと見周していると、まるで墓標の
ひとつひとつが、あの日、何の罪もなく犠牲になってしまった人たちに
見えてくる錯覚に陥った。
そしてあらためて、あの日、広島で起こった出来事が、どれほどまでに
悲惨な出来事だったのか、その驚きと哀しみが、私の全身を貫いた。

もう二度と繰り返さないように・・・・。

8月6日 午前8時15分。
合掌。

広島の空 さだまさし


コメント
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