りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

尾崎豊。

2010-11-24 | Weblog


昨日、尾崎豊のCDをレンタルした。
2ndアルバムの「回帰線」と3rdアルバムの「壊れた扉から」。
両方とも、1985年の作品。

僕は、まぎれもない尾崎豊世代だ。

彼がデビューしたのは1983年の晩秋。僕は14歳だった。
当時、ラジオから流れてきたデビューシングルの「15の夜」に、
理屈抜きで琴線が震えたことを今でもよく覚えている。

後から知ったことだが、彼の所属レーベルはCBSソニー。
そして彼のプロデューサーは須藤晃という方で、
アレンジャーは西本明と町支寛二。
スタジオミュージシャンには、THE HEARTLANDとTHE FUSEの面々。
つまり、当時(今もだが)最も僕が好きだった浜田省吾と佐野元春の
スタッフ&ミュージシャンで、彼のデビューアルバムは制作されて
いたのである。
だから、僕の琴線が震えたのは偶然でも何でもなく、ものすごく
安易な必然だったのだ。

話が、それた。

僕はたしかに尾崎豊世代で、彼の歌に共鳴はしたが、熱狂的な
ファンではなかった。
僕にとっての尾崎豊は、デビューアルバムから3rdアルバムまでが
すべてだからである。
それ以降の尾崎には、何も興味がない。
何枚かアルバムを出したが、ハッキリ言って、3枚目までのアルバムの
拡大再生産でしかなかった。
その証拠に、尾崎自身も3rdアルバム以降は、明確な方向性が示せず
長期の休業状態に陥ったり、意味もなくNYへ渡ったり、挙げ句の果てに
覚せい剤に手を出してパクられたりした。

彼が亡くなった時のこともよく覚えている。

1992年の春。
土曜日の夜、TVニュースの速報で知った。
僕が暮らしていたアパートの部屋で、その夜は、たまたま友達が
遊びに来ていた。
驚いた。
だけど、不思議と悲しくはなかった。

「何やってんだ、こいつ・・・」

ニュースを見ながら、何度も何度も僕はその言葉を繰り返した
記憶がある。
当時、僕は22歳。
僕はその数週間前に、“社会”に出たばかりだった。
そう、尾崎豊がずっと対峙し続けていた“社会”に。

それ以来、尾崎豊は聴かなくなった。
いや、正確には聴かない人間になった、と言った方がいいかも知れない。

だから、彼の死後、何枚も追悼のCDや秘蔵のDVDや暴露的な本が発表されても、
まったく購入しなかったし、それ以前に何も興味もわかなかった。
上述したが、僕にとっての尾崎豊は、デビューアルバムから3rdアルバムまでが
すべてだったのである。

そして、昨日。

いつも立ち寄る大型書店のレンタルCDコーナーで、尾崎豊を探した。
すぐに見つかった。
今でも数多とある彼のCD(ほとんどが死後の作品だったが)の中から、
端っこに遠慮がち置いてあった2ndアルバムと3ndアルバムを手に取った。

「15の夜」を初めて聴いてから、27年。
彼が亡くなって、18年。

もう、いいだろう。
いや、違う。
今、聴きたい。
素直に、そう思った。

帰宅して、聴いた。
懐かしい歌が次々と流れてきた。

あの頃。
10代のど真ん中の頃、歌詞を聴きながら、そうそう、その通りだ!と
心で強く頷いていた歌たちが、僕の鼓膜に痛く響く。
あの頃の僕が今の僕を見たら、いったいどう思うだろう。
そしてこの歌に大いに共鳴していた16歳の僕が今の僕を見たら、
いったいどう思うだろう。

僕はもう、飢えた狼ではない。
鉄ばかりを食っていない。
豚に食らいつくことが多くなった。

でも少なからず、あの頃よりは今の方がタフになった気がする。
なぁ、そうは思わないか?

尾崎豊「Bow!」
コメント
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