その工場の外観が気になりはじめたのは、たしか中学生の頃だった。
その工場は戦前から続く紡績工場で、壁面は赤煉瓦で造られていて、そこだけを切り取って
見ると、まるで日本離れした風景に見える場所だった。
町の中心部に鎮座しているので、物心ついた頃からその工場は知ってはいた。
しかし中学生になった頃から、それまでの単に“知っている”という次元ではなく、何故か
妙に気になりはじめた。
ただ当時はまだまだ子どもだったためか、それがどういう感情なのか、自分の中でうまく
理解できずにいた。
それから10年ほど時間が過ぎて、20代半ばになった。
その頃になると、10代の頃にはよく分からなかったその感情が、ようやく自分で分かり
はじめていた。
それは、“この赤煉瓦の壁面で、何かを表現したい”、という気持ちだった。
実家を出て、大学も卒業し、広告業界の人間となったボクは、同世代のデザイナーを連れて、
この工場へ訪れたことがあった。
工場へやって来たデザイナーは「いい建物だねぇ」とつぶやいて、ボクと一緒にその古びた
煉瓦の壁面をいつまでも眺めていた。
でも、それだけだった。
お互い社会に出てまだ間もないヒヨッ子だったボクとデザイナーは、やりたいことは十分に
分かっていても、それを具現化するだけの能力も方法もまだまだ未開拓だったのだ。
それから、さらに15年ほど時間が過ぎて。
2年前の夏、最初に勤めた広告会社の先輩のゆ~こさんが、徳島からわざわざ遊びに来てくれた。
ボクと同じグラフィックデザイナーで、しかもフォトグラファーでもある彼女は、常に一眼
レフのカメラを相棒のように携えていた。
その日も、当たり前のように一眼レフを持っていたゆ~こさんを、ボクは紡績工場へ連れて
いった。
紡績工場の壁に恋い焦がれながらも、あまりにも長い間、何ひとつ行動を起こさないまま大人に
なってしまったボクには、もはやその場所を客観視することができなくなっていた。
つまり、本当にあの場所が創作の対象になるだけの場所なのか、もう自分では分からなくなって
いたのだ。
プロのクリエーター(恥ずかしながら自分もなのだが)なら、分かるかも知れない。
その一心で、ボクはゆ~こさんの手を引っぱって行った。
見知らぬ町角の見知らぬ建物の前に半ば強引に連れて来られたゆ~こさんは、自らの意思で
そうしたのか、それともボクの悲壮感さえも漂う懇願に根負けしたのか分からないが、手に
した一眼レフで工場の壁を撮りはじめた。
それから、一週間後。
ゆ~こさんから、1枚のハガキが届いた。
それは、9月に誕生日を迎えるボクへのバースデーカードだった。
カードの裏面を見て、息が詰まりそうになった。
そこには、一週間前に撮影したばかりの写真が使われていた。
カードに使われていたその写真は「ゆ~こさん、誕生日プレゼントに1枚撮ってよ」とボクが
冗談を口にしながら撮ってもらった写真だった。
間違っていなかった。
カードを見ながら、そう思った。
紡績工場の赤煉瓦の壁は、写真に精通した人の手にかかれば、十二分に創作の対象になる素材
だったのだ。
写真を見ても、この撮影場所が日本の、瀬戸内の、小さな島の紡績工場には見えない。
“アメリカの街角で撮った”と言っても、疑われないくらいの出来映えだった。
今でもその写真は、ボードの上に置いてある。
自分がモデルの写真を飾るのはちょっと恥ずかしい気がしないわけでもない。
しかし長年暖めてきた想いがカタチになったモノなのだから、ある意味、ボクにとっては宝物
なのだと思う。
その紡績工場。
昨日の新聞に「1月末で閉鎖された」という記事が掲載されていた。
現在、屋内の機器が搬出されていて、近いうちに建物も土地も売却されるらしい。
周辺の住民は「歴史ある建物なのでなんとか残してもらいたい。せめて、赤煉瓦の壁だけでも」と
訴えているそうだ。
理由は違えど、ボクも同じ気持ちだ。
なんとか、残してもらいたい。せめて、赤煉瓦の壁だけでも。
その工場は戦前から続く紡績工場で、壁面は赤煉瓦で造られていて、そこだけを切り取って
見ると、まるで日本離れした風景に見える場所だった。
町の中心部に鎮座しているので、物心ついた頃からその工場は知ってはいた。
しかし中学生になった頃から、それまでの単に“知っている”という次元ではなく、何故か
妙に気になりはじめた。
ただ当時はまだまだ子どもだったためか、それがどういう感情なのか、自分の中でうまく
理解できずにいた。
それから10年ほど時間が過ぎて、20代半ばになった。
その頃になると、10代の頃にはよく分からなかったその感情が、ようやく自分で分かり
はじめていた。
それは、“この赤煉瓦の壁面で、何かを表現したい”、という気持ちだった。
実家を出て、大学も卒業し、広告業界の人間となったボクは、同世代のデザイナーを連れて、
この工場へ訪れたことがあった。
工場へやって来たデザイナーは「いい建物だねぇ」とつぶやいて、ボクと一緒にその古びた
煉瓦の壁面をいつまでも眺めていた。
でも、それだけだった。
お互い社会に出てまだ間もないヒヨッ子だったボクとデザイナーは、やりたいことは十分に
分かっていても、それを具現化するだけの能力も方法もまだまだ未開拓だったのだ。
それから、さらに15年ほど時間が過ぎて。
2年前の夏、最初に勤めた広告会社の先輩のゆ~こさんが、徳島からわざわざ遊びに来てくれた。
ボクと同じグラフィックデザイナーで、しかもフォトグラファーでもある彼女は、常に一眼
レフのカメラを相棒のように携えていた。
その日も、当たり前のように一眼レフを持っていたゆ~こさんを、ボクは紡績工場へ連れて
いった。
紡績工場の壁に恋い焦がれながらも、あまりにも長い間、何ひとつ行動を起こさないまま大人に
なってしまったボクには、もはやその場所を客観視することができなくなっていた。
つまり、本当にあの場所が創作の対象になるだけの場所なのか、もう自分では分からなくなって
いたのだ。
プロのクリエーター(恥ずかしながら自分もなのだが)なら、分かるかも知れない。
その一心で、ボクはゆ~こさんの手を引っぱって行った。
見知らぬ町角の見知らぬ建物の前に半ば強引に連れて来られたゆ~こさんは、自らの意思で
そうしたのか、それともボクの悲壮感さえも漂う懇願に根負けしたのか分からないが、手に
した一眼レフで工場の壁を撮りはじめた。
それから、一週間後。
ゆ~こさんから、1枚のハガキが届いた。
それは、9月に誕生日を迎えるボクへのバースデーカードだった。
カードの裏面を見て、息が詰まりそうになった。
そこには、一週間前に撮影したばかりの写真が使われていた。
カードに使われていたその写真は「ゆ~こさん、誕生日プレゼントに1枚撮ってよ」とボクが
冗談を口にしながら撮ってもらった写真だった。
間違っていなかった。
カードを見ながら、そう思った。
紡績工場の赤煉瓦の壁は、写真に精通した人の手にかかれば、十二分に創作の対象になる素材
だったのだ。
写真を見ても、この撮影場所が日本の、瀬戸内の、小さな島の紡績工場には見えない。
“アメリカの街角で撮った”と言っても、疑われないくらいの出来映えだった。
今でもその写真は、ボードの上に置いてある。
自分がモデルの写真を飾るのはちょっと恥ずかしい気がしないわけでもない。
しかし長年暖めてきた想いがカタチになったモノなのだから、ある意味、ボクにとっては宝物
なのだと思う。
その紡績工場。
昨日の新聞に「1月末で閉鎖された」という記事が掲載されていた。
現在、屋内の機器が搬出されていて、近いうちに建物も土地も売却されるらしい。
周辺の住民は「歴史ある建物なのでなんとか残してもらいたい。せめて、赤煉瓦の壁だけでも」と
訴えているそうだ。
理由は違えど、ボクも同じ気持ちだ。
なんとか、残してもらいたい。せめて、赤煉瓦の壁だけでも。