りきる徒然草。

のんびり。ゆっくり。
「なるようになるさ」で生きてる男の徒然日記。

1992-1993・広島。

2012-04-09 | Weblog
ちょっと前にもこのブログに書いたが、ボクは今年で社会に出て20年になった。

10代の頃から憧れていた広告業界。
最初に就職した会社は、広島市内の折込みチラシ制作専門の広告会社だった。

大学時代、自主的に通信講座で「コピーライター養成講座」は受講していたものの、
その他には何も取り柄の無く、典型的な“営業職養成”の経済学部出身のくせに、
断固として制作希望だったボクは、“デザイン制作でないと、御社には入社しません!”と
今のご時世では到底考えられないことを面接時から口にしていた。

ボクの頑固な信念が通じたのか、はたまた、単にまだバブルの余韻が残っていただけなのか
分からないが、ボクは、希望通り制作部デザイン課に配属されたのだった。

しかしそんなカタチで制作部に配属されたものだから、やはり理想と現実のギャップに
見事にぶつかった。

洗練されて、おオシャレで、知的で、クリエイティブで、時代の最先端をゆく仕事・・・な
わけがなかった。
コンピュータによるデジタル化なんてまだまだ夢物語の時代だった。
ボクは来る日も来る日も、デスクに座り、チラシの版下(印刷の元になる原稿)とにらめっこ。
片手にはカッター、片手には定規。その横にははさみとスプレー糊。
朝出社して、帰宅するのは、電車もバスも終わった真夜中。
ひとりぼっちのアパートに帰って、深夜のテレビ番組が放送されている時間だったら、なぜか
妙に嬉しくなって、目頭が熱くなった。
コピーライター養成講座も、宣伝会議も、AD FLASHも、様々な広告賞も、何もかもあっという
間に吹き飛んだ。

“何やってんだ、オレ”

そんな自問自答を繰り返したことも、数え切れない。

同期入社の連中は、60人余りいた。
研修が終わり、広島本社、大阪支店、東京営業所と配属され、みんな社会の第一線に飛びだした。
しかし、そのまま帰ってこなかったヤツもいた。
GW、夏期休暇、年末年始・・・と節目を迎えるたびに、まるで櫛の歯が抜けるが如く、一人また一人と、
退職していった。
入社して1年が過ぎた頃には、もう半分ほどの連中しか残っていなかったのではないだろうか。

ボクも悩んでいた。

就職から1年が過ぎて、印刷におけるデザイン制作はおぼろげに分かりはじめた。
でも、それだけだった。
どんなにがんばってスキルが上がったとしても、それは「折込チラシ」の中だけの話だった。
世の中には、数多の広告がある。
ポスター、パンフレット、サイン、名刺、TV-CM ラジオCM・・・etc.
コピーを書きたい、イラストも書いてみたい、ロゴマークもデザインしてみたい。
そんな広告業界をめざしはじめた頃の想いは、1年が過ぎても死んではいなかった。

2年目の秋、ボクは辞表を提出した。

アテは、なかった。
でも、このままではいけない気がしていた。
とにかく、もう一度リセットして、やり直そう。その一心だった。

またそれとは別に、故郷の両親のことが気になっていた。
父はボクが20歳の時に大病をして、すっかり身体が弱っていた。
母も元々そんなに丈夫な方ではない。
祖父母が亡くなり、弟も高校卒業して家を出てしまい、子どもの頃6人家族だったボクの実家は、
今では年老いた両親が2人で住む淋ししい家になっていたのだ。
皮肉にも、家を出て、放蕩学生を続け、そして社会に出たとたん、自分が“長男”だという自覚が、
ボクの中に芽生えてしまったのだった。

帰ろう。

そう決めた。
どうせ、アテはないんだ。
そう決めると、長年暮らしたアパートを引き払い、その前年に友達から譲り受けたオンボロ車に
家財を詰め込んで、ボクは広島を後にした。

今でも覚えている。
1993年10月31日だった。

ボクの広告業界での広島時代。
その禍中にいた時は、いいことなど何ひとつないような気がしていたし、実際そうだったと思う。
でも、あれから20年が過ぎて今でも広告業界でしぶとく生き残っているのは、ぶっ倒れることすら
忘れるほど右往左往していたあの頃があったことおかげだということは、いまでは否定できない。

今思い返せば、懐かしい。でも、それだけだ。

だから人生は、なにごとも結果オーライなのかも知れない。
コメント (4)
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