先日、山車の出る隣街の祭りを見に行った。
数年前は夜店も数件あった、4台の山車が練り歩く祭りだ。
しかし今年は、夜店は一軒もなく、薄暗い街灯がぼんやりと灯る狭い旧街道に、4台の山車だけが身を寄せ合ってお囃子を鳴り響かせる。
そこだけが異世界からの幻灯を映しているような、妙にノスタルジックであった。
それぞれに趣向を凝らした山車の上には、横笛に大小さまざまな太鼓やスリ鐘を鳴らす人、狐やお多福にひょっとこの面をつけて舞う人がいる。
夜の暗さから浮かび上がるそれらを見入る人々の薄い人垣が、異世界と現実世界の結界の役を果たしているかのようだ。
小さい人も中くらいの人も、すっかりその魔力に魅入られていた。
少子高齢化、地域社会参加への義務感が薄れたこともあり、祭りを担う人が減少の一途を辿っている。
20年ほど前から、そこここにある神社などの祭りが、後継者不足のために廃止統合される傾向にあった。
しかし衰退への歯止めはかからず、どうにか残って細々と行われる祭りも、存亡の危機に立たされている。
おそらくいくらかの信心が残っている団塊の世代が退いたならば、これらの祭りもともに消えていくのではないか。
面倒なことも多い地域の伝統行事、しかし、そのために集まり協力し合うことで人々のつながりを作る効果もある。
都市部には都市部の、田舎には田舎の、それぞれにいい面と悪い面がある。
理想として、節度をわきまえた個人とコミュニティーのあり方が求められるのは、共通するところだ。
違うのは、そのかかわり方の種類と深さで、同じ尺度で測るのは、そもそもできない話であった。
だが、時代の流れと傾向において、田舎が都市化し、均一化されてきたらしい。
それが、地域の祭りが衰退するという現象に顕在化したのだ。
現実味で他の存在がますます希薄化する風潮の中で、べったりと村社会的濃密なつながりを求める心はなくならない。
デジタルの世界も生身の世界も、本当は同じ人間がかかわっていることに変わりないのに。
人の生活パターンが多様化している時代に、決まった時間に集うのは困難だけれども、年に一回の祭りという場を通して生活する地域の密な人間関係を持つのは、もしかしたらとても必要とされているのではないだろうか。
数年前は夜店も数件あった、4台の山車が練り歩く祭りだ。
しかし今年は、夜店は一軒もなく、薄暗い街灯がぼんやりと灯る狭い旧街道に、4台の山車だけが身を寄せ合ってお囃子を鳴り響かせる。
そこだけが異世界からの幻灯を映しているような、妙にノスタルジックであった。
それぞれに趣向を凝らした山車の上には、横笛に大小さまざまな太鼓やスリ鐘を鳴らす人、狐やお多福にひょっとこの面をつけて舞う人がいる。
夜の暗さから浮かび上がるそれらを見入る人々の薄い人垣が、異世界と現実世界の結界の役を果たしているかのようだ。
小さい人も中くらいの人も、すっかりその魔力に魅入られていた。
少子高齢化、地域社会参加への義務感が薄れたこともあり、祭りを担う人が減少の一途を辿っている。
20年ほど前から、そこここにある神社などの祭りが、後継者不足のために廃止統合される傾向にあった。
しかし衰退への歯止めはかからず、どうにか残って細々と行われる祭りも、存亡の危機に立たされている。
おそらくいくらかの信心が残っている団塊の世代が退いたならば、これらの祭りもともに消えていくのではないか。
面倒なことも多い地域の伝統行事、しかし、そのために集まり協力し合うことで人々のつながりを作る効果もある。
都市部には都市部の、田舎には田舎の、それぞれにいい面と悪い面がある。
理想として、節度をわきまえた個人とコミュニティーのあり方が求められるのは、共通するところだ。
違うのは、そのかかわり方の種類と深さで、同じ尺度で測るのは、そもそもできない話であった。
だが、時代の流れと傾向において、田舎が都市化し、均一化されてきたらしい。
それが、地域の祭りが衰退するという現象に顕在化したのだ。
現実味で他の存在がますます希薄化する風潮の中で、べったりと村社会的濃密なつながりを求める心はなくならない。
デジタルの世界も生身の世界も、本当は同じ人間がかかわっていることに変わりないのに。
人の生活パターンが多様化している時代に、決まった時間に集うのは困難だけれども、年に一回の祭りという場を通して生活する地域の密な人間関係を持つのは、もしかしたらとても必要とされているのではないだろうか。