喫煙権から嫌煙権へと世の流れは移ろって。
開高健のエッセイ集「地球はグラスのふちを回る」は、いわゆる滑稽洒脱な大人の読み物だ。
タイトル通り、酒に関する話題も多いが、煙草について書かれたものについて採り上げたい。
私は、煙草を一切吸わない。
若いとき、1度や2度ふかしてみたがそれきりで、狭い空間で煙草を吸われると辟易するどちらかといえば嫌煙家だ。
家人は煙草を吸うので、煙草のにおいが染み付いた彼の部屋に行くのも気が向かないし、衣類にもうんざりしてしまう。
しかし、どこ構わず吸うわけではないので、そこから先は個人の趣味嗜好をとやかく言いたくない。
今から30年前はまだ、煙草が大腕を振ってまかり通っていた。
レストランでも禁煙席を設けているところは稀。
それが、アメリカあたりから喫煙者は健康軽視だけでなく公害を撒き散らす悪者として弾圧される風潮が広まり、デカダンスが生まれし彼のフランスでさえも公共の場では禁煙とするまでになって、偏った健康意識が世界に蔓延してしまった。
まだ煙草を迫害する風潮は緩まることがないようで、ヒステリックな様相を呈している。
たしかに、病気や子供、妊婦にいいことはないし、喫煙に割く時間が生産の作業効率を下げるかもしれない。
でも、人は完全な機械ではない。
場合によっては喫煙というリラックスを必要とする。
また、煙草を一服という作業などをいったん中止してする行為が、冷静さをアイディアをもたらす場合もありえることを考えてみよう。
喫煙者でないならば、一杯のお茶、手を止めて窓の外を見、戸外の空気を吸いながら姿勢を正すこともいいだろう。
開高健は、煙草はそのくゆる煙を目で見ることに大きな価値をもつといっている。
あのゆらゆらと揺れながら立ち昇り消えていく煙には、何か人の思考にも似て通じるものがあると思わないか。
どこかいい加減さと緩み、寛容性がなくなっては、この世は不毛地帯になってしまう。
健康第一というならば、煙草を目の敵にするには小物過ぎやしないか。
殺虫剤、工場の廃液、食品添加物、我々を取り巻く健康に害をなす物質は煙草の比ではないと思うのだが。
野放しの喫煙権が失われ、嫌煙権が確立した今、両者歩み寄りとなって欲しい。
自分の主義主張、権利を声高に叫び振りかざすのは、成熟した文明文化を持つ者のすることではないだろう。
開高健が今生きていたなら、時が経っても人の精神的成熟は進むどころか退化してきていると嘆く姿が目に浮かぶ。
そういえば、宮崎駿の映画「風たちぬ」のシーンに煙草を吸うところがあって、嫌煙家たちがクレームをつけたとかあったらしいが、やれやれと思ったしだいである。
開高健のエッセイ集「地球はグラスのふちを回る」は、いわゆる滑稽洒脱な大人の読み物だ。
タイトル通り、酒に関する話題も多いが、煙草について書かれたものについて採り上げたい。
私は、煙草を一切吸わない。
若いとき、1度や2度ふかしてみたがそれきりで、狭い空間で煙草を吸われると辟易するどちらかといえば嫌煙家だ。
家人は煙草を吸うので、煙草のにおいが染み付いた彼の部屋に行くのも気が向かないし、衣類にもうんざりしてしまう。
しかし、どこ構わず吸うわけではないので、そこから先は個人の趣味嗜好をとやかく言いたくない。
今から30年前はまだ、煙草が大腕を振ってまかり通っていた。
レストランでも禁煙席を設けているところは稀。
それが、アメリカあたりから喫煙者は健康軽視だけでなく公害を撒き散らす悪者として弾圧される風潮が広まり、デカダンスが生まれし彼のフランスでさえも公共の場では禁煙とするまでになって、偏った健康意識が世界に蔓延してしまった。
まだ煙草を迫害する風潮は緩まることがないようで、ヒステリックな様相を呈している。
たしかに、病気や子供、妊婦にいいことはないし、喫煙に割く時間が生産の作業効率を下げるかもしれない。
でも、人は完全な機械ではない。
場合によっては喫煙というリラックスを必要とする。
また、煙草を一服という作業などをいったん中止してする行為が、冷静さをアイディアをもたらす場合もありえることを考えてみよう。
喫煙者でないならば、一杯のお茶、手を止めて窓の外を見、戸外の空気を吸いながら姿勢を正すこともいいだろう。
開高健は、煙草はそのくゆる煙を目で見ることに大きな価値をもつといっている。
あのゆらゆらと揺れながら立ち昇り消えていく煙には、何か人の思考にも似て通じるものがあると思わないか。
どこかいい加減さと緩み、寛容性がなくなっては、この世は不毛地帯になってしまう。
健康第一というならば、煙草を目の敵にするには小物過ぎやしないか。
殺虫剤、工場の廃液、食品添加物、我々を取り巻く健康に害をなす物質は煙草の比ではないと思うのだが。
野放しの喫煙権が失われ、嫌煙権が確立した今、両者歩み寄りとなって欲しい。
自分の主義主張、権利を声高に叫び振りかざすのは、成熟した文明文化を持つ者のすることではないだろう。
開高健が今生きていたなら、時が経っても人の精神的成熟は進むどころか退化してきていると嘆く姿が目に浮かぶ。
そういえば、宮崎駿の映画「風たちぬ」のシーンに煙草を吸うところがあって、嫌煙家たちがクレームをつけたとかあったらしいが、やれやれと思ったしだいである。