rock_et_nothing

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教育の難しさ、”平等”の妄想

2015-03-03 15:58:30 | つぶやき&ぼやき
教育はとても大切だと常々思う。
そして、とても難しいものであると痛感する。
一般的塾といえるものには到底及びもつかないしがない寺子屋を、いや、学童保育的意味合いがかったものをしている家人は、いつも真剣に悩んでいる。
かなり深い絶望感にとらわれている。

スマホは、中学生ならばほぼ半数は所有する時代。
ゲームにユーチューブ、ラインをしていると学校外の時間はほぼ消費されてしまっている子供たちが大勢いる。
家人は、それのすべてを否定はしないが、それらに時間を奪われほかのさまざまな経験や思索の時間を持てない現状を憂いているのだ。
よしんばゲームをしてもその進め方が中途半端で、何もかも簡単にできるところだけつまみ食いし食べ散らかす。
ユーチューブを見るにしても、ただ何とはなしに見て、その先に広がる世界への興味は持てないで終わってしまう。
ラインは便利だけれども、生活時間の中に絶え間なく流れ込んでくる友達の意識に距離を置けなくなる危険性が大きい。
子供だから仕方がないとばかり言ってはいられないのだ。
結局与えるのは大人で、大人自身もその流れに飲み込まれている場合があり、客観的に子供の状態を把握できていないことがある。
欲しいと言われればすぐさま与え、スマホの中毒性がたびたび叫ばれているにもかかわらずその使用状況を見て指導することができない。
「どの子もスマホを持って使っている、これが今は普通」というのが、親の免罪符なっているのだろう。
つまり親が思考停止に陥っているのだ。

また、最低限の九九、掛け算・割り算、小数点や分数、基本的な算数が中学生になってもおぼつかない場合が結構ある。
漢字に関しては難易度が上がっているけれど、平易な文章を読むときにその中に出てくる言葉の意味を知らなく、驚かされることしばしば。
身近な地理的知識も疎く、生活上で体験する理科的情報に頓着がない。
何に驚き、不思議を抱き、知りたいという欲求を持つことはないのかと、子供たちのあまりの視野の狭さに不安になる。

”平等”とは、なんでも一律に同じであればいいということではない。
すべてのものに個体差があるように、個人の能力にも差がある。
それぞれの能力に見合った教育を施してこそ、真の平等に近づけるのではないだろうか。
教育とは、効率が悪いものだ。
労や時間を惜しんでは成せるものではない。
分からないまま取り残されていくことは、避けなければならない。

大人子供区別なく、分からないことが多くなると考えることを放棄しやすくなる。
それでもとりあえず時間は過ぎてその場は終わるから、さし当たって困らないからだ。
ちょっと難しくて分からないことをしようとすると人の目から光が消えるのを、家人はいつも目の当たりにしている。
それがとても寂しく悲しいことだと家人は言う。
私もそれを聞くたび、子供たちの未来の扉がひとつまたひとつと閉じられ消えていくような気がしていたたまれなくなる。

教育は一朝一夕で成るものではなく、子供だけの問題でも、親だけの問題でもない。
しかし、今のままでは確実にまずい、目先の平等妄想を払拭して、能力に差があっても幸せな人生を歩むための地に足の着いた教育を目指すべきではないだろうか。