rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

ねこが私を呼びに来るだけで

2013-07-26 21:10:20 | ねこ
ねこが私を呼びに来るだけで、なんと幸せな気持ちになるんだろう。
私の声を聞いて、私の足音を聞いて、あの部屋で音楽が鳴っているのを聞いて、どこからともなくトコトコとやってくる。
足元にそっと寄り添い、ニャッと鳴く声に、ガラス戸越しの影で、ねこに気がつく。

今日も、鉢植えに水をあげていると、古い母屋の玄関からのっそりとあらわれニャッと鳴く。
いつもの部屋で子供たちの相手をしていると、ガラス戸にまあるく黒っぽい影がぼんやりと映っている。
そして、ご飯やマッサージをねだるのだ。
時には、ただの挨拶だけのこともある。

付かず離れず互いを意識している、そんな気がして嬉しくなる。
ねこにも私にも、仏性が宿っていると思うそんな瞬間。

消え行く地域の祭り

2013-07-25 16:00:02 | 随想たち
先日、山車の出る隣街の祭りを見に行った。
数年前は夜店も数件あった、4台の山車が練り歩く祭りだ。
しかし今年は、夜店は一軒もなく、薄暗い街灯がぼんやりと灯る狭い旧街道に、4台の山車だけが身を寄せ合ってお囃子を鳴り響かせる。
そこだけが異世界からの幻灯を映しているような、妙にノスタルジックであった。
それぞれに趣向を凝らした山車の上には、横笛に大小さまざまな太鼓やスリ鐘を鳴らす人、狐やお多福にひょっとこの面をつけて舞う人がいる。
夜の暗さから浮かび上がるそれらを見入る人々の薄い人垣が、異世界と現実世界の結界の役を果たしているかのようだ。
小さい人も中くらいの人も、すっかりその魔力に魅入られていた。

少子高齢化、地域社会参加への義務感が薄れたこともあり、祭りを担う人が減少の一途を辿っている。
20年ほど前から、そこここにある神社などの祭りが、後継者不足のために廃止統合される傾向にあった。
しかし衰退への歯止めはかからず、どうにか残って細々と行われる祭りも、存亡の危機に立たされている。
おそらくいくらかの信心が残っている団塊の世代が退いたならば、これらの祭りもともに消えていくのではないか。

面倒なことも多い地域の伝統行事、しかし、そのために集まり協力し合うことで人々のつながりを作る効果もある。
都市部には都市部の、田舎には田舎の、それぞれにいい面と悪い面がある。
理想として、節度をわきまえた個人とコミュニティーのあり方が求められるのは、共通するところだ。
違うのは、そのかかわり方の種類と深さで、同じ尺度で測るのは、そもそもできない話であった。
だが、時代の流れと傾向において、田舎が都市化し、均一化されてきたらしい。
それが、地域の祭りが衰退するという現象に顕在化したのだ。

現実味で他の存在がますます希薄化する風潮の中で、べったりと村社会的濃密なつながりを求める心はなくならない。
デジタルの世界も生身の世界も、本当は同じ人間がかかわっていることに変わりないのに。
人の生活パターンが多様化している時代に、決まった時間に集うのは困難だけれども、年に一回の祭りという場を通して生活する地域の密な人間関係を持つのは、もしかしたらとても必要とされているのではないだろうか。






中くらいの人の夏が終わった

2013-07-24 23:51:39 | 随想たち
根っからのスポーツマンとは言いがたいが、そこそこに恵まれた体躯のおかげで、中くらいの人は二つの夢を見られた。
一つは、大きな大会に走り幅跳びの選手として出場できたこと。
二つ目は、部活動でも大きな大会に出場し、プレーが出来たこと。
両方とも、そこで夢破れたが、個人技とチームプレーの二つの世界で得がたい経験を積めた。

中学生になり入った運動部の練習は、中くらいの人の貧弱な体力には相当きついものがあったようだ。
しかし、中くらいの人は、自分の意思で歯を食いしばり休むことなく練習に参加する。
大きな体という資産だけで、どうにか乗り切った観は否めないけれど、時間が経つごとにスポーツマンらしく成長する様は、見ていて感心するものだった。
初めての厳しい夏の練習を超えて、二年生になる頃には、陸上競技に頭角を現すようになり、狭い地域だが競技会に出場できるまでになる。
そうすると欲が出るもので、自主的なトレーニングを行いながら、来年の夢を描くのだ。
三年生では、地域の走り幅跳びで一位という躍進を遂げるも、大舞台では体調不良などの不運もあって、自ら掲げた目標に及ばず、彼の一つの夏が終わった。
ついで、部活動では、チームメイトと共に大会への切符をやっとの思いで手にし大会に臨むも、力尽きてしまう。
またもう一つの夏が終わったのだ。
これも、掲げていた目標に届かなかったので、彼の悔しさは限界に達し、無念と懸けていたものが終わった喪失感が彼を襲い、止め処ない涙をこぼさせた。
傍らで見ている者は、その、いかにも青春然とした清い涙に、胸を打たれずにはいられない。
まだ日も浅いから、すっかり立ち直ってはいないけれど、友人達に支えられて気持ちの整理をつけるだろう。

たかだか二年半のことだが、中学校のこの部活動というもの、人間形成においてやっておくべきことなのかもしれない。
辛いこと、いやなこと、面倒なこと、それらと面と向かい逃げずに立ち向かうことで、自分の心も持っていき方を掴むことが出来るようになろう。
運動部ならば、体力もつく。
自分には、部活動の経験がないので、中くらいの人を見ながら部活動についていろいろと考えることがあったのだ。
ただ、部活動が土日も組み込まれていると、体力回復や気持ちの切り替えなどする余裕がないところに、いささかの不満と疑問が残る。
社会人になれば、否応無に時間に追いまくられてしまう場合が多いのだから、中学生のときぐらい予定に追われない生活をすることも必要だと思うのだ。

ともかくも、中くらいの人の夏は終わった。
この夏が彼に及ぼした影響は計り知れない。
終生、忘れがたい夏であることは間違いないといえよう。







雲の見本市、そして虹

2013-07-22 06:57:03 | 空・雲・星・太陽たち

雲のホールから乳房雲 その1  21/7/2013


雲のホールから乳房雲 その2  21/7/2013


虹  21/7/2013

一昨日あたりから、空は賑やかだった。
北よりの強い風のせいだろうか、秋雲のような見るたびに違う形状の雲が空に浮かんで流れている。
しかも昨日は、滅多に見ることのない形の雲が空を彩っていた。
夕方、近くの祇園祭の山車を見に行こうと、家族で車に乗り込み走り出してすぐ、空の光景に目を奪われた。
雲の丸く開いた穴の中から、別の雲が降り立つようなものが西側の空にかかり、反対の東の低めの空には二重の弧を描いて虹がかかっている。
これはまたとないチャンスと、カメラを取りに戻り、シャッターを切った。
虹が薄くてよく写すことが出来なかったが、ホールの雲はきれいに撮れた。
それから車を走らせながら、空の変わる様を見ていたら、あの薄かった虹が今までにないほどに濃くくっきりと色が現れているではないか。
南国のトロピカルカラーとでも言うような、鮮やかなネオンカラーだ。
すぐに車を止められるところを探して、シャッターを切るが、時すでに遅し、虹はすうっと薄くなり、普段見られる色合いになっていた。
一瞬の出会いが肝心の雲と虹は、我々を待ってはくれない。
ほとんど人に気付かれることなく、それらは生まれ消え去っていく。
今回、その奇跡的な出会いに恵まれて、我が一家は感動ひとしきりなのであった。

暴かれるエロス、アイロニストのハンス・ベルメール

2013-07-21 10:50:36 | アート

球体関節人形



ハンス・ベルメールは、20世紀ドイツ出身のアーティスト。
そのポルノ的作風に、眉根を寄せる方々も多かろう。
しかし、人間の持つ貪欲かつ醜悪な性的趣向を煽情するために、彼は作品を作り続けたわけではないはずだ。
完璧なまでのバランス感覚で吟味された線と丁寧な仕上げにこだわった人形たちからは、邪念の入り込む余地など見られない。
むしろ、徹底的にエロスを暴き視覚化して曝け出し、畳み掛けることによって、見るものの邪な考えを糾弾していくように思える。
彼はニヒリストに陥ることのない、深い愛のあるアイロニストなのかもしれない。

20世紀前半の狂気の時代、ナチズムを真っ向から否定することのできたものは少なかった。
ある意味、彼の愛という内なる狂気があったからこそ、時代に流されないでいられたともいえよう。

いま、経済という欲望のリミッターを外す麻薬によって、世界各地で人のモラルの低下が著しい。
この時代、ベルメールの作品のアイロニーは、通じるのであろうか。
ニヒリストの自分には、最早手遅れの気がしてならない。

なお、ここに挙げた彼の作品は、非常にソフトなものである。