rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

景色は待ってくれない

2014-03-22 23:23:06 | 随想たち
好きだった景色が失われてしまった。
それに気がついたのは、一週間ほど前。
小さい人を病院に連れて行った帰り道、視界に入ったお気に入りの場所に違和感を覚えると、あるべき木が切り倒されていた。
病気が入ったのか、それとも雪の重みで木が裂けたのか、それとも邪魔になったから切ったのか。
ともかく、もうあの景色はなくなってしまった。
ずっと思っていた、その景色を写真に撮りたいと願っていた。
ところが、いつでも写真は撮れると高をくくっていて、本当はいつまでも在るなどということがありはしないことを忘れて油断したのだ。
ときどき家人と話している、何気ない風景も写真におさめておこうと。
それなのに今回の失敗。
最近このあたりで木を切るのが流行っていたのに、迂闊だった。
今日、またその場所の近くを通ると、切り倒された木が切り分けられ横たわったままにある。
それは痛々しく、あたかも私の後悔の墓標の象徴として網膜に刻み込まれたのであった。

春のブリュージュ、メムリンク

2014-03-21 23:28:35 | アート

Mystic Marriage of St. Catharine


Angel Holding an Olive Branch

確か4月3日頃だったか、早春のブリュージュに行ったのは。
まだ長閑な田園風景が車窓を流れ、木製のコンパートメントに揺られての一人旅。
天気は快晴、キリキリト冷たい空気が頬を刺す。
ローデンバック「死都ブリュージュ」をどこかに見出そうとしていても、輝く春の陽射しに照らされた古都は観光地として活路を見出していて、市庁舎の周りには多くの人が地図を見ながら歩いていた。
まずはおのぼりさんよろしく鐘楼に登り街を俯瞰し、運河沿いに散策をする。
それから、インフォメーションでもらった地図と日本語ガイドブックを頼りにぐるぐる石畳の路地を歩いて辿り着いたメムリンク美術館の前には、先客の学生のグループと老齢の夫婦がいた。
メムリンクの描くエマイユのような光沢を持ち精緻な絵の数々が、先ほどの人たちはどこへ行ってしまったのだろうと思うくらい、ひっそりと時が止まったかのような空間に飾られている。
もしかすると、細部まで綿密に描かれたメムリンクの絵を近寄って見入ったために、あの人たちはこの絵の中に取り込まれてしまったのだろうか。
15世紀後半にブリュージュで活躍したメムリンクの絵は、彼より先んじた北方ルネサンスのヤン・ファン・エイクやローヒル・ファン・デル・ウェイデンらの作品と共に、時の試練をものともしなく、当時の色の輝きを保っている。
そして今はもうこの技術は失われてしまった。
500年の時間を飛び越えてしまったかのようなメムリンクの絵に、平常感覚を奪われ軽いめまいを覚えながら外へ出た。
昼近い太陽の光を浴びながら石の街を歩いて人通りの多い道に出てやっと、現実に戻ることができた。
それから15年後、再び訪れたブリュージュは、すっかり様変わりしていた。
ヨーロッパの好景気が、街を一新させたのだ。
メムリンク美術館やミケランジェロの聖母子像がある教会へ、記憶を辿りながら行けるだろうか歩いたが、ペギン修道院付近の変わりようを見て無理だと悟った。
しかし、メムリンクの絵は何も変わらずあの部屋に収まっているだろう。
なんといっても500年の時を飛び越える作品だから。

雨の卒業式

2014-03-20 22:27:03 | 日記
雨の卒業式は、雨音に負けない子供たちの元気な声で特別なものへとなった。
卒業生が思い出や感謝の言葉を、在校生が卒業生に贈るはなむけの言葉を大きな声でする呼びかけや、卒業生が歌う別れの歌に在校生が歌う送る別れの歌、どれもはきはきとして聞く者の心が爽やかになる。
そろそろ思春期に差し掛かる頃の卒業生が照れることなくこうも大きな声ではきはきと歌い呼びかけるのは珍しく、先生方の指導のよさもさることながら級友たちの連携が上手く作用したのだと感心する。
ほぼこの卒業生は同じ中学に進み半数は同じクラスになるだろうから、協力し合いよいクラスを作っていけるのではないか。
といっても、心身ともに成長著しい中学生は、いろいろな面で不安定な時期でもある。ちょっとしたことで傷つき閉ざされる心を抱えるこの時を、周りの大人はしっかりと注意深く見守り、いつでも癒しの場となれる心構えを迫られる。
ただ、その受け皿となるべき大人たちに余裕はあまりないように見受けられ、実際歳ばかり悪戯に重ねて心は未熟な大人も多いのも確か・・・とは、自分の心をのぞいてみて思うこと。
卒業式、新たな未来に一歩踏み出す子供たちの一つの区切りが、庇護されるだけの子供からの離別を彼らにそれとなく伝え覚悟させる機会であるばかりでなく、大人達にも覚悟を迫るものだと、今日改めて肝に銘じたしだいだ。

ブログを引っ越してきました

2014-03-19 21:50:47 | 日記

当gooブログへ本日引っ越してきました。
以後どうぞよろしくお見知りおきを。

昨日の春一番がもたらした土埃が、サッシの隅に積もっていました。
嵐の間おとなしくしていたウグイスも、今日は気持ちよさそうに歌っています。
梅の花も一気に満開になり、春が遅れを取り戻そうと焦っているように感じます。

インフルエンザに罹って出席が危ぶまれていた小さい人も、明日の卒業式にどうにか参加できるようになりました。
天気はあいにくと曇りのち雨の予報でも、式に出られるだけ良しとしますか。

中くらいの人の入学説明会もあって、明日は大切な用事が盛りだくさんです。

卒業と入学、春は大きな節目を感じる季節です。

春一番と土埃、2014

2014-03-18 22:50:14 | つぶやき&ぼやき
土埃を盛大に巻き上げながら、春一番が吹いた。
もうもうと立ち昇る土埃は、例年の如く景色を茶色に染める。
今年は何回土埃が舞うのかと気をもみながら、明日の掃除の厄介さにうんざりする。
こんな日は、よほどの用事がない限り外出しない。
まだ風が吹かない朝のうちに外に出るべき用は足したし、小さい人のB型インフルエンザが完治していないのもある。
家の中で、ごうと唸りを立て吹く風の音、ばちばちばちと土埃がアルミ製の雨戸を打ちたたく音を聞いていた。
時々考える、土埃を防止し、国産小麦の増産にもなる小麦栽培の復活はないかと。
気候変動で、外国からの食料の確保が難しくなるかもしれない。
まだ雨の恵みのあるこの日本だからこそ、作物の生産に力を注がなくては宝の持ち腐れ。
ただし、アメリカや中国張りの生産法は、土地をやせさせるからやってはいけない。
一見非効率的に思える今の生産方式が、地力を奪わない合理性を備えていると思うのだ。
しかし、農業だけで生計を立てるのは難しい時代、就農者はなかなか現れない。
食品を低価格にしたいと望むなら、生産者がまともな収入を得られるようテコ入れが必要だ。
もし、テコ入れが農業優遇と捉えて不服があるのなら、キャベツ1個300円、豆腐1丁200円、ジャガイモ1キログラム350円、牛乳1リットル300円が最低価格となっても文句を言ってはいけない。
農業は、設備投資が多く、天候に大きく左右されるギャンブル性が高い職業。
我が家は農家ではないけれど、農業が多く占める地域に住んで、農家の過酷な状況を見聞きすると、同情せずにいられない。
どの職業もそれなりの言い分はあるけれど、ゆるがせにできない分野もある。
平和に暮らしたいのなら、なにを押さえるべきか、おのずと見えてくると思うのだが。
春一番と土埃、毎年考えさせられる現象である。