rock_et_nothing

アートやねこ、本に映画に星と花たち、気の赴くままに日々書き連ねていきます。

今年初ウグイス、梅の香

2014-03-16 22:21:58 | 植物たち

朽ちかけた梅の木 16/3/2014


苔むして風格も 16/3/2014

暖かな陽射しに誘われて、梅の香りが風に乗って漂ってきた。
ほの甘い香りをマスク越しに鼻腔いっぱいに吸い込んで春を楽しいでいると、どこからか不慣れなウグイスの鳴き声が聞こえてくる。
梅にウグイス、まるで花札のようだが、なぜだかめでたい気分になって、カメラを持ち出しそこここ構わず写しだす。
青空を背に梅の花を写そうとしたところ、露出がどうもオーバー気味で白く飛んでしまってどうも上手くいかない。
スギ花粉も盛大に空中を舞っていて、マスクをしていてもくしゃみが止まらなく、いつまでも外にいるのは好ましくないので、諦めて朽ちかけた梅の老木を撮ることにする。
苔がこびりつき幹の中は虫に喰われ空洞になっていてもなお春になれば花を咲かせる、その生命力の強さよ。
若く元気なものが美しいのは当たり前、老いて朽ちようとするものは身体に刻み込まれた年月が荘厳な衣装となって風格を与え違う美を醸し出す。
老いも若きも、古きも新しきも、混在することが豊かさだ。
単一の世界は、何も起こらない停止した、それは死の世界。
そんなことを考えながら、梅の老木を撮っていた。
二度目に聞いたウグイスの歌声は、咽喉の調子が整ったのか、伸びやかさが感じられるものだった。




クリスマスローズ 16/3/2014

「宇宙兄弟」稀に見る爽やかな鑑賞後

2014-03-15 23:57:47 | 映画
星を見るのが好きだからというわけではないが、テレビで放映されていた実写版映画「宇宙兄弟」を観た。
コミックはまったく、アニメは数回見ていたくらいの、特別ファンということもない。
インフルエンザで寝ている小さな人の様子を気にかけながら、家人と何気なくという感じだ。
主人公たちが子供の頃に抱いたまっすぐな夢を追いかける姿は、とても輝き、こそばゆいくらいに憧れを刺激する。
誰しもシンプルに生きたいと願ってはいても、そうならないのは世の常、貫くことの難しさ。
フィクションだから夢物語と言い切ってしまっては身も蓋もない、フィクションだからこそ描かなくてはならないとはいえまいか。
夢、人との強い絆、共に立ち向かう仲間、分かち合い、他者を認める寛容な心、自尊心、報われる努力、自分の存在意義、多くのものが盛り込まれていて、それを叶えていく主人公は、人がなりたい理想像だろう。
ときには、そんな夢物語の世界に浸ってみて、無垢な幼心を思い出してみるのも良いではないか。
家人と映画を観終わったあとに、久々に爽やかな気持ちになれたと語り合った。
現実の重さを一時でも無重力にしてくれる、良い映画だったと思う。

今年初のカエル、昨夜の嵐と共に

2014-03-14 22:28:22 | 生き物たち
昨日の南よりの風が強く吹き温かな雨をもたらした嵐の夜、今年初のカエルを見た。
玄関の外灯が照らし出す敷石に、カエルが1匹2匹3匹と飛び跳ねている。
今年の啓蟄は3月6日だったが、冷たい空気が居座っていて日中でも10度に届かなく、カエルたちは長い冬眠を終えることができないでいた。
ところが、温かい雨が一気にカエルたちを眠りの大地から解き放ち、春の目覚めを寿ぐダンスを誘ったのだ。
運良くそれを目撃した私は、いよいよ本格的春の到来が来たと心浮き立った。
しかし、良いことは一人だけではやって来るわけではない、歓迎しないものも一緒な場合もある。
寒気が押さえ込んでいた杉の花粉玉を、日に日に強く夏陽射しと暖かな空気は爆発させた。
もうマスクとゴーグル無では外出できず、衣類について入り込んだ花粉は容赦なく攻撃を仕掛けてきて、連発するくしゃみでエビになりかけている。
昨夜の嵐が、花粉を地面に叩き落してくれるだろうと期待していたが、さてどの程度落ちたものか。
花粉のことは憂鬱だけれど、カエルや、まだ今年お目見えしていないトカゲたちに会える春は、やはり楽しい。
寒さでいじけていた花たちも、のびのびと花を咲かせるだろう。
自然と歌を口ずさみたくなり足取りも軽やかになる春、いいものではないか!



ポッポ初披露

2014-03-11 22:47:40 | 生き物たち

初披露、ポッポ1号 11/3/2014

買い物から帰ってきて倉庫に自動車を入れようとしたら、なんと入り口に2羽のハトが日向ぼっこをしているではないか。
自動車が近くに来ても動じることがないハトたち。
もしかすると写真を撮る絶好のチャンスと興奮しながらも、仕方がないので庭に駐車した。
ニコ1の望遠をとってきて早速撮影。
するとポッポ1号がエサをねだりにそばへ寄ってくる。
ポッポ2号は、まだ警戒心が強く一定の距離を保ちながら、エサを期待しているようだ。
ピーナッツの手のひらに5粒載せてそっとしゃがむと、ポッポ1号はすぐさまやってきて手のひらからピーナッツを啄ばむ。
日陰だったのでぶれてしまったが、ポッポの素早さが強調されているように見えないだろうか。
ポッポ2号には、ポッポ1号にエサを奪われない立ち位置でピーナッツを撒いてあげた。
長閑な晴天の日。

今日であの東日本大震災から3年、14時46分に黙祷を告げるサイレンが鳴り響いた。
時間が確実に進んでいるのに、被害が大きかった地域はまだ混沌とした中に停まっている。
死者を悼むばかりではなく、生者が前向きにしっかりと生きていかれないでいては、死者が浮かばれないではないか。
来年の3月11日、同じようなことを繰り返し書きたくはない。
実のある復旧がなされるよう、手綱を引き締めてあたってもらいたいものだ。


ポッポ1号、ポッポ2号 11/3/2014


手からピーナッツを食べるポッポ 11/3/2014

バブルとビッグウェーブ

2014-03-10 23:35:37 | 随想たち
家人と意見を同じくする、「バブル前のヨーロッパを見られて良かった。」と。
開高健のエッセイがらみで派生した話。
バブルになる前のヨーロッパに、似たような時期に私と家人は滞在していた。
シャルトルもブリュージュも昔から有名な観光地ではあったけれど、ピカピカに磨き上げられてはいなく、街を歩けば時が刻み込まれたような石の壁や石畳がいたるところに残っていた。
しかし、5年後旅行で訪れてみるとなにやらいたるところで再開発が進められているのか、大々的な工事を行なっていた。
そしてさらに10年後、すっきりときれいにリニューアルした街は、道路を走り路上駐車された真新しいベンツやBMWでグレードアップし、あちこちぶつけてよれよれのルノーやフィアットの姿を見かけなくなっていた。
旧市街に軒を連ねるお店なども洒落た外観に内装に変わり、街行く人々の服装も気の利いたおしゃれなものになっている。
確かに景気がよく街に活気が溢れるのはいいことだ。
でもその様子が、かつて日本が経験したものとオーバーラップして、とても脆く危なっかしく感じたのだった。
ヨーロッパのバブルが終わりを迎えてから行く機会はないけれど、ニュースなどでうかがい知ることによるとどうも殺伐とした空気が覆っているようだ。
急激に上昇する景気は、まるで心地よい大波だ。
波に飲み込まれているうちは有頂天で漂っていられるけれど、波が引くときに根こそぎ人情信頼や生活の基盤、文化さえも持っていってしまう。
その後遺症は、上昇するときの時間の数倍以上続き、他の地域で順次起こるバブルとその後の余波を受けて、一度ひずんでしまった経済は一国の問題で済まされない。
これらのツケは、目に見えないところで蓄積されて紛争や小競り合いが絶えることのない世界でも一地域に留まらなく、世界を一変させるとんでもない力になりかねないように思う。
もしそれが戦争という形でしか解消されないというならば、人類を滅亡に向かわせてしまう力を持ってしまった現在、なんとしてでも回避させなくてはならない。
良心と英知を結集して、耐えがたき蛮行を押し留めよう。
人間というものに絶望している自分だけれども、かろうじて絶望しきっていない。
なぜなら、未来を作る子供という存在がまだ絶えていないからだ。
先に生まれたものは、後を生きるものたちの未来を奪える権限などもってはいないのだ。