もう、そろそろ赤になるなあ……ほうら赤だ。
営業から帰ってきた車の中で、オレはそう思った。地下の駐車場に車を入れて、エレベーター……右が先だ。左の方は乗り降りに手間取っているんだろう、四階で止まったままで、後から動き出した右側の方が先に着た。万事この調子である。
オレは、コンタクトをつけてしばらくして、美優といっしょになった。きっかけは、コンタクトを初めて付けたときに見た美優の美しさだが、それだけでは説明として不十分だ。オレは美優のミテクレだけで惚れたんじゃない。美優がオレに持っていてくれた気持ちが本物だと分かったからである。
なんだかノロケに聞こえるかもしれないが、オレは高校生の初恋のように時めいた。オレも三十路半ばで、自分が年相応にオッサンになりつつあることは分かっていた。だから、これまで付き合ってきた女たちの中には「まあ、これぐらいで手を打とうか」という、割れ鍋に綴じ蓋というか、妥協のようなものを感じて、踏み切れないでいたのが現実だ。だが、美優は違っていた。
「じゃ、A社との乙案でいきます」
同じフロアーの営業二課で、城崎の声がした。同期入社だが、目先の利く奴で営業成績もよく、今では課長補佐。一馬身は抜かれた。通りすがりに、その企画書やら見積もりが見えた。
こりゃ、B社との甲案だ。A社は粉飾で、来期には潰れるCPUにアクセスした。画面を見ているだけで、暗号キーやら、アクセスの手順が分かり、あっと言う間にA社の財務諸表にたどり着いた。
「見ての通りの粉飾です。うちとの取引は、健全経営のカモフラージュに過ぎません。納品させるだけして、銀行や株主の信用を取り付け、あとはドロン。社長以下、この四人の企みですよ……ほら、専務の直近の金の出入り。むろん、これも裏口座ですがね。マレーシアの不動産を購入……こりゃ、海外逃亡の用意でしょ。
「杉山、いつのまに、こんなテクニックを……一流のハッカーだぞ!」
「とういうわけで、明日から、課長代理だ!」
「ほんと、よかった!」
美優は、持っていた鍋の置き場所に、一瞬悩んだあとけっきょくキッチンのコンロの上に置き、その分助走をつけてオレに抱きついてきた。オレは美優を抱えたまま絨毯に転んで、そのまま抱き合った。
「ほんとうに嬉しい」
突然の抱擁のあとの身繕いもそこそこに美優は泣いた。
そんな美優が愛おしく、押し倒しながら言った。
「まだ満足な式もあげていない。今度休暇を取ったら、旅行がてらに結婚式をあげにいこう」
「嬉しい!」
それからは、公私共々に忙しいというか、上り坂だった。
ちょっと無理をしてバリ島に行き、二人だけの結婚式をあげた。美優は、ますます美しくなっていく。そして、オレに合った女になっていった。いや、オレも美優にあった男になった。
パソコンを使って、三十万で始めた株式投資が三月で一千万円、半年で一億円を超えた。
「いっそ、株で食っていこうか!?」
これには、美優は反対した。
「だめ、基本は実直に働くサラリーマン。これを踏み外しちゃいけない……ウ、ウウ!」
オレは美優の口を唇で塞ぎ、美優は苦しいとも嬉しいともつかない声を上げた。そして、オレは株のプロへの道を塞いだ。結局、仕事を精一杯やって、会社を大きくし、それに見合う役職について腕が振るえれば、それでいい。美優は、オレを、そんな健全なサラリーマンの王道を歩ませてくれた。
美優と知り合って、ちょうど一年目の夜、二人だけで記念の食事をした。六本木あたりのいい店と思ったが、美優の希望で、会社からそんなに離れていないホテルの最上階のラウンジで、お祝いをやった。
「あのとき、あの横断歩道でぶつかっていなかったら、今夜の二人はなかったんだな……」
オレらしくもない、従って面白くもないオレの言葉に美優は、言葉少なに頷いた。目を潤ませて、しっかりとオレの顔を見つめて……。
その夜、美優は激しくオレを求めてきた。一周年の感激のあまりだろうと、おれも渾身で、それに応えた。
朝。
ふと胸騒ぎがして目が覚めた。ベッドに美優の姿が無かった。
まだ美優がいたベッドのそこには温もりが残っていて、シャワーでも浴びているのかと思ったが、その気配もない。半身を起こして、部屋を見渡すと、夕べ脱ぎ散らかしたままの二人分の服やバスタオルが、そのままになっていた。靴も、部屋に備え付けたスリッパも、下着さえそのままだった。
「美優……」
不安に駆られ、オレは身繕いすると廊下に出ようとして、気づいた。ベッドの上の一台のケータイに。
――あなた、この一年ほんとうにありがとう。美優は、とっても幸せでした。お別れするのはつらいけど、これでサヨナラです。一年前、あの横断歩道で、あなたにぶつかって、美優はあなたを好きになってしまいました。あのときわたしは、ポーッとなってしまって、車に撥ねられてしまいました。
そして、あのとき、わたしは死にました。
あとは、ケータイがわたしになって、わたしを生かしてくれたのです。これは、そういうケータイなのです。
あなたの目が悪くなったとき、わたしはケータイの寿命とひきかえに、あのコンタクトレンズを服部のおじさんから買いました。ちょっと人には見えないものが見えるコンタクトです。特にそんな機能はいらなかったけど、あなたの視力を維持できるのは、あの店では、あのコンタクトだけでした。あなたに美優の本当の姿が見えるのではと心配しましたが、あなたには最後まで美優と見え、接してもらいました。
愛は長さではありません。この一年で、わたしとあなたは愛の結晶になりました。ちょっとキザですけど、わたしの心のままです。最初のサヨナラは削除したいけど、もう、ここまで。いつまでも愛してます。美優――
そこまで読むと、それを待っていたかのように、画面からメールが消えた。あとは、どこを触っても、押しても反応は無かった。
美優……!
オレは、美優を助けるために、あの店に急いだ。朝のセンター街は閑散としていたが、店はすぐに見つかった。
「オヤジさん、頼むよ。美優を、美優を助けてやってくれよ。オレの目が見えなくなってもかまわないからさ! 頼むよ、オヤジ! オヤジ……!」
そのとき、扉の張り紙に気が付いた。
――店主都合により、本日をもって閉店させていただきます。長年のご愛顧ありがとうございました。店主敬白――
そして、オレの目には、店の中には誰もおらず、何もないことが見えた。
美優……オレは、その姿と、声、仕草を刻みつけながらセンター街を歩いていった……。