くノ一その一今のうち
「土井さんですか?」
「里中満智子さん?」
「いいえ、中村その子です」
猫に言われた通りにやり取りすると、助手席のドアが開けられた。
大工さんとか職人さんとかが着ている薄緑系の作業着、胸元には土井造園のロゴ……植木屋さんなんだろうけど肌が白い。
「隠居した植木屋です。楽隠居だから日焼けも抜けてしまいましてね……お袋は新地で芸者をやってたんで、地は色白でして、今でいうデフォルトってやつです。まあ、すぐにお屋敷に着きます」
「お屋敷?」
「聞いていませんか、キネマ屋敷ですよ」
「キネマ屋敷……ですか?」
「はい、日本を代表する映画人杵間さまのお屋敷」
「映画?」
「はい。まあ、じきに着きますから。年寄の下手な説明よりもご自分の目で確かめてください」
「あ、はい」
川を渡ると四車線の一本道、標識には内環状線と書いてあるから幹線道路なんだろう。
幹線道路だから、そんなに信号は多くない……んだけど、ほとんどの信号に引っかかる。
「ごめんなさいね、あちこちにご挨拶があるもんで」
なるほど……忍びの者か妖の類かの視線を感じる。
「交差点ですからね、信号に注意してるふりして観察してるんです。大丈夫です、立ち向かってくるようなことはありませんから」
神田の古書店街でも似たような気配に遭った(6『百地芸能事務所・1』)けど、あの時の剣呑さは無い。土井さんも大丈夫って言ってることだし、気にしないでおこう。
それから近鉄線が見えたところで曲がって、しばらくいくと神田川を1/4にしたぐらいの川に出くわし、そのまま川辺の道に入った。
「雰囲気のいい川ですね」
「長瀬川です。きれいな小川ですが、昔の大和川の名残です」
関西の川なんて知らないっていうか分からないんだけど、大和川って名前が由々し気だ。
大和は国のまほろばとか国語で習ったような気がするし、宇宙戦艦ヤマトとかあるしね。
川には小さな橋がいくつも掛かって川の両側を繋いでいるので、川が街を隔てているという感じがしない。
「この先に見えてきますのが樟徳館という屋敷です」
「ああ、あれが」
広壮な日本建築のお屋敷が見えてきた。
「昭和三年から五年まで、ここに『東洋のハリウッド』と呼ばれた大きな撮影所がありました。火事で焼けてしまった跡に建てられたのが、あのお屋敷です。いろんな想いが凝っていましてね、ちょっとした次元の狭間みたいなものができてしまって、そこが、鈴木様のお役に立つというわけなんです」
「はあ……」
「もうしわけありません、ついフライングした物言いをしてしまいました。あそこに橋が見えますでしょ」
「えと……あのお屋敷の角のですか?」
「いえ、あれは『帝キネ橋』と申しまして別の橋です、その手前、ちょうど樟徳館の正面の方です」
土井さんは、アクセルをゆっくり踏み、ハンドルも微妙に回す。
なぜか、カメラのピントを合わせているような気がした。
「あ、見えました!」
「よかった、さすがは風魔流御宗家を継がれただけのことはあります。あの橋をお渡りください、お屋敷ではない景色が見えてくるはずです。そこが、その一さんの活動拠点になります」
「はい」
ギッ
土井さんがサイドブレーキを入れて、二人で軽トラを降りる。
「それでは、わたしはここまでです。ご健闘を祈ります」
「はい、ありがとうござ……」
振り返ると、土井さんも軽トラックも消えてしまっていた。
「さて……」
小さく深呼吸して橋に足を掛ける。
「あ、え……?」
お屋敷に、もうひとつ別の景色が滲みだすようにして重なり、さらに足を踏み出すとお屋敷は消えて別の景色だけになった。
黒っぽい塀が左右に延びて、わたしが立っているそこだけ、門が八の字に開かれ、門の上には虹のような看板が渡って『帝國キネマ撮影所』のデザイン文字が煌めいていた。
☆彡 主な登場人物
- 風間 その 高校三年生 世襲名・そのいち
- 風間 その子 風間そのの祖母(下忍)
- 百地三太夫 百地芸能事務所社長(上忍) 社員=力持ち・嫁持ち・金持ち
- 鈴木 まあや アイドル女優 豊臣家の末裔鈴木家の姫
- 忍冬堂 百地と関係の深い古本屋 おやじとおばちゃん
- 徳川社長 徳川物産社長 等々力百人同心頭の末裔
- 服部課長代理 服部半三(中忍) 脚本家・三村紘一
- 十五代目猿飛佐助 もう一つの豊臣家末裔、木下家に仕える忍者
- 多田さん 照明技師で猿飛佐助の手下