あのコルトを狙え

TOKYO2020 子供たちに負債を(笑)

いすみ鉄道の思い出 4【終】

2018-08-20 22:00:00 | Weblog

国吉駅前では模擬店が並び弁当やお菓子などが売っていて盛況となっていた。

その中でフェリー乗り場までの道中に軽く食べられるものを物色していると

ポップコーンが目についた。

これなら車内でも食べられそうだ。

父に帰りのクルマの中でポップコーンでも食べる?と聞いてみると

『うん、食べたい!』

なんだか子供のような返答が気になりながら再び売り場に戻って

買おうとするとお店のおじさんが

「お!さっき古いクルマで入ってきたオトコマエのお兄さんだ!」

やあねぇ~、男前なんて初めて言われましたわよ(笑)

「えらいオトコマエがやって来たなぁと思っていたんだよ。最後の残り二つなんだけど二つ買わない?」と言われて

素直に二つお買い上げしてしいました(笑)

食べてみると確かにおいしいポップコーンだったので一つはお土産用に買って正解。

その日の夜は職場のバイトさんの送別会があったので早めに帰らなくてはならず

もっと居たかったけど国吉駅を後にしました。

帰路、フェリー乗り場まで目指すコルトの中では助手席の父が

ポップコーンの袋を抱えポリポリ、ポリポリと食べていた。

その姿に小学生の頃に家族でコルトで旅行した時を思い出す。

兄弟3人はリアシートでスナック菓子を食べていて

父は当然ハンドルを握っているので食べられない父が子供心にカワイソウと思い

時折手を伸ばし「おとうさん!」と言ってお菓子を差し出した

ちょっと横を向きそれを咥える父。

あの時も同じコルトだったな。

今、私がハンドルを握り隣で父がポップコーンを子供のように食べている。

夕暮れの山道をコルトは快調に走っていった。

 

翌日、父から「あぁ、昨日はありがとうな」と言われた。

特に感激したような姿は見せず普段通りの父だった。

昨日の子供のような姿は何だったのだろう?

 

それから2年して父が亡くなった。

いすみでの事で思うところがあった。

 その数年前から父に「お前今いくつになった」と聞かれる事が2回位はあった。

「~歳だよ?」

『そうか、俺の親父の死んだ歳の頃なんだな』

祖父は酒の飲みすぎが原因で早く亡くなったそうで43、4歳だったと聞いていた。

『この位の歳だったんだなぁ』と、私の姿を見て感慨深げに言うのだ。

その時は何にも思わなかったのだが…

 

『あれ買って』『これも食べたい』『うん、食べる』

あの国吉での父は私に祖父を重ねていたのでは…

父の幼い頃に亡くなってしまった祖父

そうだ きっとそう…


父が訪れたくても訪れてはならなかった国吉。

最後に連れて行けて良かったと思います。

 

でもそれはいすみ鉄道が今のような姿となりイベントが開かれたから。

鳥塚社長がいすみ鉄道に来ていなければ私達親子は訪れておらず

父が国吉に行く事は無かったのだ 

人は本人の預かり知らない所で誰かの役に立っている

鳥塚社長 本当にありがとうございました。

きっとまたどこかの町で多くの人を笑顔にさせて下さい。

鉄道だけの赤字黒字ではなく町全体が潤うような鉄道を再び・・・

【終わり】

鳥塚前社長の新ブログはこちら

 

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いすみ鉄道の思い出 3

2018-08-19 22:00:00 | Weblog

駐在所に行くとお巡りさんは警備に出ていて家族の方が対応をしてくれた。

事情を話し大きな地図を見せてもらうと何件か私と同じ姓が見つかった。

この中のどなたが親戚なるのか分からない。一件ずつ当たっていくしかないか…

まず最初に選んだのがいすみ鉄道沿線で土地勘もあるお宅。

地図を見ただけで、あの辺りかと見当がついた。それに候補の中では大きな邸宅となるので

得られる情報も大きいかもしれない。

そのお宅はいすみを訪れる際に必ず通る場所の脇となる。

すぐに見つかり表札を確かめると確かに同じ姓だ。

親戚以外で初めて見る同じ姓の表札に感動(笑)

「農業をしていた、と聞いた事があるのでここかもしれない」と父は言うが一発目で当たる事はないでしょう。それにしてもさすがに今日の父はテンションが高いな。

それも当然か。

しかし呼び鈴を押しても声を掛けても応答はない。どこか畑にでも出ているのかもしれない。

  いないみたいだね 他を当たってみようよ

父に声を掛けるのだが先ほどとは打って変わって寂しそうな顔をして家を眺めている

「うん…」

せっかくだから写真を撮っていこうよ、あ、そっかデジカメ忘れているから

ガラケーのカメラしかないか(汗

 

この父の寂しそうな顔がなんとも…

と、その時に庭から「なんでしょうか?」とご主人らしき方が声を掛けてきた。

まずは私から「横浜から参りました〇〇と申しますが実は父の実家をさがしておりまして~」

と挨拶し説明をする。

なんとか詐欺がはびこる世の中

いきなり同性だ、というだけで押しかけられたら引くわな(笑)

そして父から都内の杉並の実家や国吉に住んでいたという祖父の事を話してもらう。

数分話した所で「そういえば子供の頃に杉並の〇〇さんの家に行った事がある。

そこのおばさんはタカさんと言ったな」

父「あぁ、タカは俺のオフクロの名前だよ!」

おじさん「あ、そう。じゃちょっと座って話そう」

なんとこの家のご主人は親戚となる訳で私の祖母をご存知でした。

詳しい事は失念しましたがどうやら祖父の兄弟の血筋のようでした。

残念ながら祖父の事や実家は分かりませんでしたが父は大満足な顔でした。

20分ほど話し込み失礼をしたのですがせっかくなので写真を撮っておきたいが

これまたガラケーのカメラしかないが…

 

先程とは打って変わって嬉しそうな顔に私も良かったなぁ、と安堵。

これを持っていきなさい、と精米していないお米を30キロも頂いてしまいました。

上機嫌の父を乗せお宅を後にして国吉駅の会場へと戻ると駅前は多くの人で混雑していたが

まにまにカレチさんの誘導で再び展示車となる。

隣はまにまにカレチさんのマツダK360だ。

   まさかこの地に父を連れて来るとはなぁ

   それにここが祖父の出身地だったとは…

そんな時にまにまにカレチさんがカメラを持って再び通りかかった。

せっかくなので今日の記念に父と二人で写真を撮ってもらおう!

厚かましくもお願いすると快諾してくれて撮ってくれたのがこの写真

 

念願かなった、という嬉しそうな父

それを連れて来られて良かったな、と満足気な私

背後には父と私のコルト1100と、まにまにカレチさんのケサブロウ(K360)

私のお気に入りの写真です。 

この写真はもしも私がカメラを忘れて来なかったら撮らなかったと思う。

自分のカメラを持っていると写真はいつでも撮れる、と思い父と二人の記念写真なんて

撮らなかった。

いい写真だな、と今は父の仏壇の隣に飾られたこの写真を見る度に

この日の事を思い出す。

そして…

この写真が父と二人で写した最後の写真となった。

 

つづく

 (まにまにカレチさん、心から感謝しております)

 

 

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いすみ鉄道の思い出 2

2018-08-18 22:00:00 | Weblog

20代の頃は旧車イベントに父と二人で出かける事があったが

今では殆ど無くなった。

早朝に東京湾フェリーを目指し横横道路を父を乗せひた走る。

久里浜で朝マックを二人分買いフェリーボート内で食べていて

そういえば東京湾フェリーに父と乗ったのは高校以来だという事に気づく。

昔は房総方面に家族で出かけた想い出などを話した。

2時間ほどで国吉の「みんなで幸せになる祭り」会場に着いた。

ここで大事な事に気づく…

あろう事かデジカメ忘れた・・・

これじゃ実家を見つけたとしても写真を撮れないじゃない。

こんな時に!自分の愚かさを呪う。

この時は会場が3か所位に分かれており

ボンネットバスが会場を連絡していたり東京サミットで使われた元国際バスが展示されていた。

ボンネットではない古いタイプのバスに乗ると父は「懐かしいな」と昔の思い出を話してくれた。

その中で木炭バスや薪バスのエピソードで

「力が無くて坂道になると男の客が降りてバスを押すんだ」

今まで木炭バスを押した、という話を半信半疑で聞いていたので

本当? 「あぁ、俺自身何度も押した」

やはり実際に聞いてみないと分からない話がある。

展示する旧車はバスで行く別の会場へ駐車し展示となるのだが

コルトはまにまにカレチさんが国吉駅前に特別に「配置」してくれた。

(このデジカメ忘れと、まにまにカレチさんが後々重要な事となる)

実家探しは後にするとして展示されている旧車見学や模擬店を回る。

お腹も減ったので弁当や汁物を物色していると父が

「これが食べたい。買って(笑)」「これも」とか言ってくる。

楽しんでいるみたいだが普段とは違う姿に戸惑った。

さて展示車両や模擬店も楽しんだのでボンネットバスで国吉駅に戻る。

祖父の実家探し、又は親戚探しの開始だが手掛かりは全くない。

コルトに乗り駐在所へ向かった。

続く

 

 

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いすみ鉄道での思い出

2018-08-17 22:00:00 | Weblog

ちょっと前のお話しですが

いすみ鉄道の鳥塚社長が解任されてしまった。


<いすみ鉄道社長退任表明>“カリスマ”喪失危惧 地元関係者「流儀受け継ぐ」千葉日報


 

今まで鳥塚社長が企画したイベントも株主の大多喜町側からことごとく却下され

鳥塚社長降ろしが行われてきたがついにその時が来てしまった。

決して円満解任ではなく解任させられた

鳥塚社長のブログは為になる話しが多く読むのが楽しみでした。

そこで、いつか書こうと思っていた父と私のいすみ鉄道の思い出。

2012年の事なのでもう6年前。

まにまにカレチさんから誘われていすみ鉄道のイベントにお邪魔させてもらった。

楽しんで帰宅し実家にコルトを置きお土産といすみ市の観光マップを親に渡した。

それから数日し母から

「今度いすみ鉄道に行く事があったらお父さんを連れて行ってあげてくれない?

あれから毎日観光マップの地図を見ているの。『この道を曲がって、ここに出るのか』とか

1人でブツブツ言っているのよ。行きたいみたいなのよ」

国吉(くによし)の事か…

そこは父にとって行ってはならない場所だったのだ。

父側の祖父は国吉の生まれだったがここでは書けない事情で

祖母は父の幼少期から「国吉には決して行ってはいけない!」と厳命してきた。

もっともその話しも私がいすみ鉄道に行くことになってから聞いた。

「おまえ、国吉に行くのか。あそこは俺の親父の実家があってなぁ

母ちゃんから絶対に行くなよ、と言われてきたんだ」

その事情も成人してから父に聞いていたが国吉がその地だとは知らなかった。

しかしもう80歳も過ぎたし自分の父の足跡に触れてもいいでしょう。

2012年4月の「みんなで幸せになる祭り夷隅」に参加が決まり

父に一緒に行かないか、と尋ねると「連れて行ってくれるのか。行く!」

即答だった。

(いすみ市)国吉に行ったら何をしたい?どこに行きたい?

「親父の家を探したい」

住所などは全く知らないそうだが手があった。

私の名前は珍しい名前なので父の兄弟以外に同じ名前の人に会った事がない。

以前に「いすみ鉄道応援団」の掛須団長から国吉には何件かその名前がある、と

聞いていたので国吉の交番等で聞けば実家の手掛かりが分るかもしれない、と思った。

(つづく)

*今回は全て書き上げてあるので4日連続でアップするであります!

追記:コルトは未だに入院中…

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