愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題92 飛蓬-24 -ハルピン旅行 (2)

2018-11-13 16:09:13 | 漢詩を読む
このハルピン旅行では思わぬ深省すべき事態に遭遇した。ちょっとした通路の窪みに足を取られるとか、また草むら中の木の切り株に躓いて転倒するという経験をしたのである。

もっとも、リュックを片方の肩に掛けて、不安定な態勢で先を急いだとか、不注意が重なった結果であるとの思いはあるが、真摯に深省し、向後の参考としなければならないか と。

駑馬の身、分不相応にして、かつ非常に恐れ多いことながら、転倒の後、我に返ると、かの大英傑・曹操の詩「亀雖寿」の“老驥 櫪に伏すも、…”が、頭を過ったのです。その折の想いを七言絶句にしました。下記をご参照下さい。

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旅途上有憶 (下平声 陽韻)

序)不加小心給隱藏在草叢里的樹墩絆倒、知応該考慮一下年齢了。緬懷了朝着‘中華統一’活動中経歴赤壁(烏林)之戦的曹操的心里。

序)不加小心(フチュウイ)に草叢(ソウソウ)に隱藏(カクレ)し樹墩(キリカブ)に絆倒(バントウ)し、歳を考慮すべき年齢となるを知る。‘中華統一’を目指せし活動中、赤壁(烏林)の戦いを経験せし曹操の心里(ムネノウチ)を緬懷(ツイソウ)す。 

老驥伏櫪志天翔,老驥(ロウキ) 櫪(レキ)に伏(フ)すも 志(ココロザシ)は天に翔(カケ)る,
神亀騰蛇也無常。神亀(シンキ) 騰蛇(トウダ) なお常ならず。
応知天意烏林戦,応(マサ)に天意を知る 烏林の戦,
曹操忍受魏国王。曹操 忍受(ニンジュ)す魏国王。

註] 曹操の詩「亀雖寿」に拠る。
不加小心:‘小心’は‘注意する’‘気を付ける’の意で、‘不加小心’は‘不注意にもうっかりと’
隱藏:人に見られないようにかくれる
樹墩:木の切り株
絆倒:ものにつまずいて転倒する
朝着: ….に向かって、….を目指して
緬懷:追懐する
烏林戦:208年、長江流域の烏林において劉備(蜀)・孫権(呉)連合軍に曹操(魏)が破れた通称「赤壁の戦い」。この結果、魏・呉・蜀の三国分立に至った。
老驥:老いた駿馬
櫪:かいば桶、馬小屋
神亀:神聖な亀、長寿の象徴
騰蛇:龍の類で、空中を自在に横行する神秘的な動物 

<現代語訳>
旅先で想い起すこと有り
 序)旅先で不注意にもうっかりして草むらに隠れた木の切り株につまずいて転倒し、歳を気にしなくてはならない程年を重ねたことに気付いた。中華の統一に向けて活躍している途上、“赤壁の戦い”に敗れるという経験をした曹操の胸の内は、斯くあらんか との想いが頭をよぎった。

老いた駿馬は、小屋に横たわっていようとも想いは天高く駆け巡るのだが、
神聖な亀や空を飛び巡る騰蛇と言えども、常ならず命の尽きる時はあるのだ。
赤壁の戦いでの敗戦で天意を悟ったに違いない、
曹操は、天下統一の夢は次代に託して、敢えて魏国王に留まった。
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本稿の“酒に対す”のシリーズで、曹操の事績について、“赤壁の戦い(208)”に至るまでをすでに触れてきました(閑話休題89、90 参照)。ここで“赤壁の戦い”その後について、簡単にみておきます。

その後も戦に明け暮れる日々であり、幾多の戦いが繰り広げられていました。それら戦さはさておき、筆者が最も関心を寄せている点は、“赤壁の戦い”の翌209年を最初に、「求賢令」という人材登用を促す令を出していることです。

先に曹操の詩「短歌行」を読んだ際、“優れた人材を切に求めている”という趣旨の句に触れました(閑話休題89 参照)。「求賢令」とは、まさにその政策の具体的な実施令ということであり、なお気炎万丈であることを示している。

一芸に秀でている人、武芸、政治、文学、…その分野は問わない。その優れた才以外、その人格、品行、所業、家柄、等々、一切不問 という-「唯才是挙」、非常に大胆な求人令で、革命的な発想であると言える。

前漢の第7代武帝(在位BC141~BC87)の頃、礼を尊ぶ孔子の教え“儒教”が国教化された(?)と言われている。それ以来、後漢末に至る300年以上経って、官僚から庶民まで“儒教”の教えに染まっている時代に である。

曹操の身近な人々でさえその令に抵抗感を覚えた人々がいたようです。ましてや各地の推挙に携わる人々の選択基準は推して知るべし でしょう。推挙されてくる者は“品行方正の優等生”ばかりだ、と、曹操は憤慨しきりであった と。

初回の発令以後、214年、217年と、3度にわたって令を発している。思いに叶う人材の発掘は思うに任せなかったのでしょう。順次、令の内容もより激しくなっていった と。

196年、曹操は、本拠の許昌に献帝(在位189~220)を迎え入れています。政治家・曹操の真骨頂ということでしょう。216年、献帝が治める帝国内の一王国として魏を建国、魏王に封じられる。一方、後漢帝国の大将軍、丞相でもある。

220年3月15日、曹操は病のため没し、後漢の丞相として生涯を閉じました。長子の曹丕が後を継ぎ、同年11月25日、献帝から帝位を禅譲されて帝位についています。その折に曹操は、太祖武帝と追号された と。

本題の詩に戻ります。躓き転んで、曹操の赤壁での敗戦を想い起こし、当時曹操の思いは如何ばかりであったか と考えたのでした。“駑馬の如きが、駿馬の喩に倣うとは何事か!”とのお叱りは甘受した上で、また自らに向けた反省点でもありました。

「亀雖寿」が作られたのは“赤壁の戦い”の1年前(207)とされています。50歳を過ぎたころです。当時としては、老齢の域でしょうか。曹操自身は、“老い”を感じていたのでしょうか、“烈士 暮年 …”と詠っていましたが。

“赤壁の戦い”に敗れて、“残念!”という想いはあった筈です。しかし敗戦の翌年には「求賢令」を発して、気炎を吐いています。まさに“壮心 已まず”です。

曹操は、実際には後漢を背負う力を持ちながら、すでに無力となっている献帝を奉戴して、後漢の臣として通しました。周囲から帝位簒奪の意を問われると、「自分は周の文王たればよい」と答えた と。

なお周昌(後の周文王)は、三公の一人として殷に仕えつつ領地の豊邑(現長安の近く)で善政を行い、力を蓄えた。力は持ちながら、最後まで殷への臣従を貫いた。この文王に倣うということである。実際に殷を滅ぼし、周を建国したのは、子の武王でした(BC1023 ?)。

200年代、世は乱れ、群雄割拠して戦に明け暮れ、民は困苦の底にあった。皇帝を詐称する人も現れる時代である。そんな折、“帝位”を得たとしても、何ら世直しには役に立つものではない。却って混乱は増すばかりであろう。

「今は時に非ず。魏王に甘んじ、人材を集め、国力の増強に努め、全土統一、真の世直しは次の世代に託そう」と、これが天意である と悟ったのではないでしょうか。

自ら躓き転んだのを機会に、兼がね、英傑の”大いさ”に感じ入っている想いを詩として詠んでみた次第です。

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