雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

老いの覚悟

2015-08-15 11:30:00 | ことの葉散歩道

老いの覚悟

  老いをどのように生きたらいいのか。

つまり、どのように死んだらいいのか

    「春に散る」沢木耕太郎著 朝日新聞連載中 小説より

  連載128回目から選んだ文節なので、今後どんな展開になるのかわからないが、これまでのあらすじを紹介。

壮年を過ぎ、老いの影が忍び寄り始めたボクサー達の物語。

将来を嘱望され、誰がチャンピオンになっても不思議ではないと思われた同期のボクサーたち。    

 だが、結果は4人のボクサーの誰も栄光のベルトを手にすることはできず、ボクシング界からも消えてしまう。

彼らにとって、青春を生き、命を燃焼するほどのボクシングとは一体何だったのだろう。

最も有望だった広岡は、突然日本を離れ、アメリカへ行ってしまう。

それは、失踪ともえる突然の消え方だった。

 以来40年、突然に広岡は日本に帰ってくる。

同期の仲間を訪ねる旅が始まった。

そこに見えてきたものは、自分を含めた4人の誰もが、幸せとは言えない生活の中で、

落ちぶれた老いを無残に晒している現実だった。

このような状況の中で、広岡が独白する場面の文節を取り上げた。 次に、以下の文章が続く。

 

 それは、たとえ金があっても問題の質は変わらない。

心臓発作という突発事に見舞われなかったとしたら、

いずれ自分にもゆっくりとではあっても訪れてきた問題なのかもしれない。

 

 「老いを生きる」ということは、それ相当の、自覚と覚悟が必要なのだ。

記憶力低下、身体機能低下、やがて、社会的に得るものよりも、失うものの方が多くなってくる。

親を亡くし、伴侶を亡くし、兄弟を亡くし、友人、知人を失う。

 若い世帯と同居をしても、話題についていけない、食べ物の好みが違う。

賑やかな食卓の雰囲気も、老いた者を素通りして進んでいく。

好むと好まざるとにかかわらず、孤独の波はひしひしと老いの岸辺に押し寄せてくる。

しかし、恐れることはない。

老いの全てを認めたうえで、残された時間を自由に生きればよい。

そのための、「自覚」と「覚悟」なのだ。

             (2015.8.15記)

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