告知について… 余命宣告
辛い事実(告知)を伝えるのは、その人がその人らしく生きるため。
病気に負けないで少しでも幸せになってもらいたいから。
「告知」なんて冷たい響きのある言葉は、そろそろ死語にしたい。
「病気の説明」で充分だ。
ショックなく、少しでも希望を持ってもらえるように、
できれば、隠し事のないように伝えたい。
辛いことを伝えるときは、
いつでも、
どんなときでも、
あなたの命に寄りそいますよという思いをこめていたい。
※ それでも やっぱり がんばらない 鎌田 實著より
集英社文庫 2008.6 第2刷刊 P45
20年以上も前の話になる。
まだ、現役で務めているとき、18歳離れている兄を癌でなくした。
通勤の道筋にあった病院に、勤めが終わるとほとんど毎日、兄の病室を訪ねた。
兄は若い時から胃腸が弱く、胃の三分の二を摘出した。
その兄が、体調を崩し二年近くを経過した。
兄には妻と未婚の一人娘がいたが、
家族のすゝめも聞かず、医者の診断を受けなかった。
かなり症状が悪化したと思われる時期、小さな町医者にかかり、
私が予想した通り、町医者の診断は、「異常が認められない」という診断だった。
その診断に安心したかのように、「そのうちよくなるよ」という兄の行状に、
「異常が認められない」ということが、健康であるという証拠にはならない、
と私の知り合いの医者を紹介した。
結果は大きな病院への紹介と、診察予約を翌日に取り付けていただいた。
翌日の診察で即検査入院の措置が取られた。
食道癌の診断が下され、しかもリンパ節への移転もあり、
ステージ4(末期癌)の診断が下された。
私は兄嫁から、「本人への告知」をどうするか相談を受けた。
当然のことながら、私は、告知すべきだと主張したが、兄の家族は反対した。
理由は「癌だと知らされたら、主人は生きる希望をなくし、命を縮めてしまうから」
というものだった。
しかし、癌告知をしなければ、今後の治療方法にも支障をきたし、思うような治療もできない。
これが、担当医の見解であった。
それでも、「癌告知はしないで欲しい」という兄の家族の意向に
私は反対することはできなかった。
一方で、告知をした結果、自暴自棄になり、あるいは意気消沈して、
「生きる希望をなくし、命を縮めててしまう」ような状況が訪れたとしても、
その時こそ、家族二人が余命いくばくもない人を、夫として、父として生を全うできるように、
力を尽くして支えることができるのが家族ではないか。
ケアカンファレンスの時も、
担当医は、「告知するかしないか」の、二者択一を迫り、
担当医としての見解やアドバイスをせず、
患者を除いた私たち三人に「イエスかノー」の回答を迫るのみだった。
私たちに結論を急がせたあげく、「延命治療」はどうするのかと
患者がまだ元気でいるうちに、私たちに最後の決断まで要求してくる。
告知の是非を迫られ、その結論が下せない段階で、
「延命治療」をどうするのかという担当医の結論を要求する性急さに、
私は担当医の医師としての姿勢に疑問を抱いた。
どんなに医療技術に優れていても、
人間的な温かみの感じられない医師は医師として、
「患者に寄り添う」という最も大切な姿勢に欠けているのではないかと私は思う。
医療に携わる者と患者の関係は、どんな場合でも対等でなければならない。
余命宣告をしなければならないステージ4の末期がん患者の家族に、
「告知」の問題を何の説明もないまま、
丸投げしてしまうような医師に命を託さなければならない患者や、
その家族の不安は大きな負担となってのしかかる。
(つづく)
(ことの葉散歩道№49) (2023.11.06記)
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