通じ合える相手
ことの葉散歩道(№28)
あの頃と口に出して、何も補うことなく通じ合う相手がいるのは幸せなことだ。 ※ 朝日新聞小説 沢木耕太郎著「春に散る」278回より |
あの頃、長い間連れ添ってきた妻との生活。
貧しくても夢や希望があった。
子育てに追われていたあの頃。
故郷の山野を駆け巡った幼友達とのあの頃。
大病を患い、長い入院生活の続いたあの頃。
楽しいことも、悲しいことも、苦しいことも、「あの頃」と言えば、
説明ぬきに通じ合うことができる人がいるということは幸せなことだ。
ボクシングの練習生として過ごしたジムの合宿所で、
チャンピオン目指して練習に明け暮れたあの頃のことを懐かしく思い出す4人の男たち。
同じ記憶を持った相手がまだいるということ。
確かに、それは、その過ぎ去った時間をいつでも取り戻すことができるということかもしれない。
と主人公の平岡は思う。
長い年月を生きてきて、
「あの頃」と言って通じ合える人がたくさんいる人は、幸せだ。
何年たっても、過去の時間を共有でき、
酒を飲みながら、或いは食事をしながら「あの頃」と相手に語りかければ、
時間は一気にさかのぼり、お互いが共有した時間に立ち返ることができる。
説明ぬきに「あの頃」を再現し、はるか昔に共有した時間が立ちどころに目の前にあらわれる。
一方、共有する「あの頃」を語るべき人がいなくても、
自分自身の記憶に語りかけ、「あの頃」を引き出すことはできる。
「あの頃」を共有した人がいなかったわけではないが、
何らかの事情があり、今は「通じ合える人」がいない。
少しばかり、さみしい環境だが、
今は存在しない人とのかつて共有した「あの頃」を懐かしく思い出すのも人生だ。
いずれにしろ、老いとともに、
「あの頃」を共有した「通じ合える人」が、
少しずつ失われていくのは仕方のないことだが、
これは、生きる者の定めとして受容して生きるほかないのだ。
(2016.6.15記)
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