戦後70年・証言(2)
生き延びたのは私だけ
玩具会社「タカタ」の創業者・佐藤安太(91)の証言
1944年10月(終戦の10カ月前)、学徒動員にかり出され、工場で研究の手伝いをしていた。
1945年4月12日、空襲警報発令のため、防空壕に避難するが、すでに満員状態。
ほかの壕へ行けと言われたが、後から来た7、8人の女学生と一緒になんとかその壕に入れてもらった。
そこに直撃弾。土をかぶり身動きが取れません。痛みで泣く声が聞こえました。
私も頭と足が痛み、気を失いました。担架で運ばれた病院はけが人であふれていました。…(略)…
防空壕に30人が入ったと思います。生き延びたのは私ひとりでした。
愚かな戦争で苦しみながら亡くなる人の姿を見たので、
終戦時、世界の平和と社会の進歩に貢献しようと考えました。
民間人が堀った防空壕の多くは、簡易な作りが多く、爆弾の直撃を受ければひとたまりもなく、崩れてしまったようです。
でも、爆弾による爆風などの被害をくい止めることは出たようです。しかし、焼夷弾による火災などで炎に包まれた場合は、
窒息死などがあったようです。
悲しく、辛い戦争の経験を、生きる希望につなげ、自分の人生を切り開いていった素晴らしい体験談です。
(2015.7.7付朝日新聞夕刊 人生の贈りもの・わたしの半生インタビュー記事より)
(2015.7.10記)
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