雨あがりのペイブメント

雨あがりのペイブメントに映る景色が好きです。四季折々に感じたことを、ジャンルにとらわれずに記録します。

墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ⑥(最終回)  その後の米兵

2018-09-01 08:24:40 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29  米兵を助けた日本人
        ⑥(最終回) その後の米兵

この墜落事件を著者の草間秀三郎氏は単なる美談として本にするのではなく、
アメリカに住む遺族を割り出し、
手紙の交流を深める過程で、
愛する人たちがどんな最期を迎えたのか詳細に知らせています。


 敗戦国という立場の中で墜落した敵国の兵士を生死にかかわらず
どのように扱ったかということは、
「見てはならないものを見、体験したことは決して語ってはいけない」という暗黙の了解があり、
根底には米軍の処罰を恐れる自己防衛の意識があったから、
携わった人たちは貝のように口を閉ざしたのです。
 それでも草間秀三郎氏が、
パンドラの箱を開けるように「板橋村B29墜落事件」を丹念に調査し光を当てたのは、
学者としての責務と教育者・研究者としての「平和を望む」尊い気持ちからだったのではないかと
私は思います。

 

 この墜落事件に携わった旧板橋村の皆さんと、
草間秀三郎氏に深い敬意を表して私の報告を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
                           


 以上が私の講演内容は以上ですが、番外編として次の二点を記して起きます。
  ① 撃墜された14機のB29の行方
    
3月10日の東京大空襲では、
   B29爆撃機14機が日本軍の高射砲か戦闘機の攻撃を受けて、
   東京都内と周辺のどこかに墜落し、4機が海上に落ちました。
   草間氏は10機すべての行方を調べたいと思い、
   わずかな情報を頼りにいくつかの市町村役場に問い合わせましたが、
   いずれも、「うわさとしては聞いたことがありますが、何の記録もないのでわかりません」
   という返事が帰ってくる有様でした。
 ② 生きていた三人の米兵のその後

      墜落現場から5人の憲兵と警察署長によって連行された3人の兵士のその後は、
    日本側の資料からは何もわかりません。
    草間氏によるとわずかに残った米軍(GHQ)の資料によると、三人のうちで階級の上の少尉
    はその日のうちに日本人に斬首されたとあるが、この日本人についての詳しい記述はない。
    他の2人の生存兵は東京の戦争捕虜収容所に収容されたが、1945年5月26日の火災で焼死
    したとある。終戦八十数日前のことである。
         (2018.8.30記)  (語り継ぐ戦争の証言№22)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

 

 

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墜ちたB29 米兵を助けた日本人 ⑤ 生きていた米兵と死んだ米兵

2018-09-01 08:22:59 | 語り継ぐ戦争の証言

墜ちたB29 米兵を助けた日本人
       ⑤ 生きていた米兵と死んだ米兵

 当時の茨城新聞(墜落2日後の3/12)の記事には
「醜骸(しゅうがい)ぎまみろ」という見出しで次のように報道されています。   

【 撃墜されたB29は赤松の林に囲まれた小高い丘の中に焼けただれて散乱し、
 我が猛攻にと
どめの一撃をされて大地にたたきつけられた
ままだ…】

又、現場に駆け付けた二人の警察官の一人五味緑さんの証言。
【墜落現場に戻ると50
先で誰かが大声で叫んでいた。
「殴るな
!
けるんだ!」という叫び声でした】

 もう一人の巡査は次のように証言しています。
【三人のうちの二人は村人たちの助けを
得ながら避難所まで歩いていき、
重症の米兵
は村人たちに担架で運ばれた。
私は医者を呼
ぼうとしたが村に医者はいなかった】

 午前4時ごろ、3人の生存兵たちは、
土浦憲兵隊支部から来た5人の憲兵と谷田部警察署長にどこかに拘引されていきました。
米兵がどこに連行され、
どのような扱いを受けたのか、
村人たちとの接触が遮断されたこともありまったく不明であり、
記録も残っていない。

 さて、墜落した機体の中に九人の遺体が発見されました。
遺体は消防団員が担架に乗せて運び、
村の共同墓地に埋葬されました。
遺体の捜査、埋葬の指揮を執ったのは谷田部警察署長でした。
米軍の記録によれば、
共同墓地に埋葬された九つの遺体の上に
板橋村の村人たちが木の十字架を立ててあったのを進駐軍によって確認されています。

墜落現場となった板橋村で、
村人たちは丁寧に遺体を埋葬し、
自分の村で戦死した米兵たちに心から哀悼の意を表したのでしょう。


当時の茨城新聞は次のような記事を載せてい
ます。
 「憎い野郎どもだが死んだものをそのまま捨てても置かれめえ」と村人はつぶやく。
  焼けただれた死体を埋めた村人たちの深い思いやりに
  埋められた赤鬼どももさぞや地
下で嬉し泣きしていることであろう】
                          
(茨城
新聞S20.3.12)
  (2018.8.29記)   (
語り継ぐ戦争の証言№21)

 「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。
 『B29墜落 米兵を救った日本人(増補版)』草間秀三郎著 論創社
 草間氏が8歳の時に目撃したB29の墜落事件の話を56年後に掘り起こしたノンフィクションを底本にし、
 講演用に脚色したものです。

                                                                       (つづく)

 

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