墜ちたB29 米兵を助けた日本人
⑥(最終回) その後の米兵
この墜落事件を著者の草間秀三郎氏は単なる美談として本にするのではなく、
アメリカに住む遺族を割り出し、
手紙の交流を深める過程で、
愛する人たちがどんな最期を迎えたのか詳細に知らせています。
敗戦国という立場の中で墜落した敵国の兵士を生死にかかわらず
どのように扱ったかということは、
「見てはならないものを見、体験したことは決して語ってはいけない」という暗黙の了解があり、
根底には米軍の処罰を恐れる自己防衛の意識があったから、
携わった人たちは貝のように口を閉ざしたのです。
それでも草間秀三郎氏が、
パンドラの箱を開けるように「板橋村B29墜落事件」を丹念に調査し光を当てたのは、
学者としての責務と教育者・研究者としての「平和を望む」尊い気持ちからだったのではないかと
私は思います。
この墜落事件に携わった旧板橋村の皆さんと、
草間秀三郎氏に深い敬意を表して私の報告を終わります。
ご清聴ありがとうございました。
以上が私の講演内容は以上ですが、番外編として次の二点を記して起きます。
① 撃墜された14機のB29の行方
3月10日の東京大空襲では、
B29爆撃機14機が日本軍の高射砲か戦闘機の攻撃を受けて、
東京都内と周辺のどこかに墜落し、4機が海上に落ちました。
草間氏は10機すべての行方を調べたいと思い、
わずかな情報を頼りにいくつかの市町村役場に問い合わせましたが、
いずれも、「うわさとしては聞いたことがありますが、何の記録もないのでわかりません」
という返事が帰ってくる有様でした。
② 生きていた三人の米兵のその後
墜落現場から5人の憲兵と警察署長によって連行された3人の兵士のその後は、
日本側の資料からは何もわかりません。
草間氏によるとわずかに残った米軍(GHQ)の資料によると、三人のうちで階級の上の少尉
はその日のうちに日本人に斬首されたとあるが、この日本人についての詳しい記述はない。
他の2人の生存兵は東京の戦争捕虜収容所に収容されたが、1945年5月26日の火災で焼死
したとある。終戦八十数日前のことである。
(2018.8.30記) (語り継ぐ戦争の証言№22)
「墜ちたB29」は、「語り継ごう太平洋戦争の記憶」で講演した原稿を加筆、訂正したものです。 |