(学校で教えてくれない経済学)
南禅寺僧坊にある金地院(こんちいん)(電話:075-771-3511)を昨日、知人二人と訪ねた。金地院に以心崇伝(いしんそうでん)が寛永五年(1628)に建てた東照宮がある。正面向かって左に徳川家康、右に豊臣秀吉像が安置してある。創建当初は諸堂完備し日光東照宮に比すべきものであったと寺が用意した案内チラシに書いてあった。
金地院には慶長十六年、崇伝が伏見桃山城の一部を三代将軍、徳川家光より賜って、移設した方丈がある。方丈を背にして、寛永七年に小堀遠州作の枯山水の「鶴亀の庭園」という壮大な庭園がある。天正拾年明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立し明治初年、金地院に移設した明智門がある。拝観券の裏に、崇伝は黒衣の宰相とも言われ、宗教界の人事、行政を左右、家康の死後境内に東照宮を建立、南禅寺造営につとめたとあった。家康、秀吉、家光、光秀とくれば正に大河ドラマではないかと話した次第である。
京都を訪れる観光客の多くが南禅寺は訪れる。特に山門を通しての緑が見事である。紅葉の頃もいいが緑一杯の真夏も涼感に溢れている。ことのほか夏の京都は暑い。しかし、大勢の人が南禅寺を参詣していた。ところが、一般の日本人は、なぜか金地院は素通りしていく。なんと外人さんが3人の子供連れで奥さんと金地院を訪れていた。筆者も恥ずかしながら金地院なる寺があることさえ知らなかったことを白状する。
一番驚いたのは家康と秀吉の像にお二人並んでお出迎えいただいたことである。崇伝は家康に帰依したが秀吉にも浅からぬ縁があった。ところが、知人の話ではバスツアーのコースには、金地院は、昔から入っていないそうだ。「家康と秀吉が二人並んで皆さんをお出迎え、是非、金地院を参詣を!!」となぜPRしないのであろうか。KONCHI-INやISHIN SUDEN、はてまたEnshiuKoboriと言えば、外人さんの方が詳しいと、物知り博士の知人のSさんが解説してくれた。
方丈の縁側に腰をおろし、小堀遠州作の枯山水を見ながら、知人に徒然草第五十二段の「仁和寺の法師」にある「先達者はあらまほしきかな」のくだりを思い出したと話をした。
その話はあらかた次のとおりである。「仁和寺にいる僧が、年をとるまでに石清水八幡宮に参拝しないでいた。あるとき思い立ってただひとりで出かけた。極楽寺や高良社などを拝んで、石清水はこれぐらいと思いこんで帰ってしまった。帰って仲間に「長年の間、思っていたことを成し遂げた。ところが参詣に来ている人が誰も彼も、山へ登ったのは、山の上には何があったのでしょうと思ったが、山まで見ませんと言って別れた。お目当ての石清水八幡宮を見落とした。「ちょっとしたことにも指導者はあってほしい。」で終る話である。
高等学校時代、国語の副読本で徒然草を学んだ。最近では「徒然草」を「つれずれぐさ」と読めない学生もいるらしい。年寄りの仲間には、徒然草を座右に置き、時々目を通しているひとも結構おられると聞く。
徒然草には、「仁和寺の法師」以外で、「先達」ということばが、横笛の話として「先達、後世を恐る」という言葉で終わる徒然草二百九十段がある。ここでは、先達(その道において他より先に達したもの)が、後から生まれたものの進歩を恐れ(敬服す)る、話が出て来る。先に達する者すべからく優れているわけではないと徒然草の作者、吉田兼好は伝えたかったのかもしれない。
世の中には、年をとれば何もする事がない、と言う方もおられる。しかし、先日も書いたが、年寄りは、努めて若者と接する機会を作り、恥ずかしがらないで、語り、かつ、書き残しておいて欲しいと思う次第である。(了)
南禅寺僧坊にある金地院(こんちいん)(電話:075-771-3511)を昨日、知人二人と訪ねた。金地院に以心崇伝(いしんそうでん)が寛永五年(1628)に建てた東照宮がある。正面向かって左に徳川家康、右に豊臣秀吉像が安置してある。創建当初は諸堂完備し日光東照宮に比すべきものであったと寺が用意した案内チラシに書いてあった。
金地院には慶長十六年、崇伝が伏見桃山城の一部を三代将軍、徳川家光より賜って、移設した方丈がある。方丈を背にして、寛永七年に小堀遠州作の枯山水の「鶴亀の庭園」という壮大な庭園がある。天正拾年明智光秀が母の菩提のため、黄金千枚を寄進して大徳寺に建立し明治初年、金地院に移設した明智門がある。拝観券の裏に、崇伝は黒衣の宰相とも言われ、宗教界の人事、行政を左右、家康の死後境内に東照宮を建立、南禅寺造営につとめたとあった。家康、秀吉、家光、光秀とくれば正に大河ドラマではないかと話した次第である。
京都を訪れる観光客の多くが南禅寺は訪れる。特に山門を通しての緑が見事である。紅葉の頃もいいが緑一杯の真夏も涼感に溢れている。ことのほか夏の京都は暑い。しかし、大勢の人が南禅寺を参詣していた。ところが、一般の日本人は、なぜか金地院は素通りしていく。なんと外人さんが3人の子供連れで奥さんと金地院を訪れていた。筆者も恥ずかしながら金地院なる寺があることさえ知らなかったことを白状する。
一番驚いたのは家康と秀吉の像にお二人並んでお出迎えいただいたことである。崇伝は家康に帰依したが秀吉にも浅からぬ縁があった。ところが、知人の話ではバスツアーのコースには、金地院は、昔から入っていないそうだ。「家康と秀吉が二人並んで皆さんをお出迎え、是非、金地院を参詣を!!」となぜPRしないのであろうか。KONCHI-INやISHIN SUDEN、はてまたEnshiuKoboriと言えば、外人さんの方が詳しいと、物知り博士の知人のSさんが解説してくれた。
方丈の縁側に腰をおろし、小堀遠州作の枯山水を見ながら、知人に徒然草第五十二段の「仁和寺の法師」にある「先達者はあらまほしきかな」のくだりを思い出したと話をした。
その話はあらかた次のとおりである。「仁和寺にいる僧が、年をとるまでに石清水八幡宮に参拝しないでいた。あるとき思い立ってただひとりで出かけた。極楽寺や高良社などを拝んで、石清水はこれぐらいと思いこんで帰ってしまった。帰って仲間に「長年の間、思っていたことを成し遂げた。ところが参詣に来ている人が誰も彼も、山へ登ったのは、山の上には何があったのでしょうと思ったが、山まで見ませんと言って別れた。お目当ての石清水八幡宮を見落とした。「ちょっとしたことにも指導者はあってほしい。」で終る話である。
高等学校時代、国語の副読本で徒然草を学んだ。最近では「徒然草」を「つれずれぐさ」と読めない学生もいるらしい。年寄りの仲間には、徒然草を座右に置き、時々目を通しているひとも結構おられると聞く。
徒然草には、「仁和寺の法師」以外で、「先達」ということばが、横笛の話として「先達、後世を恐る」という言葉で終わる徒然草二百九十段がある。ここでは、先達(その道において他より先に達したもの)が、後から生まれたものの進歩を恐れ(敬服す)る、話が出て来る。先に達する者すべからく優れているわけではないと徒然草の作者、吉田兼好は伝えたかったのかもしれない。
世の中には、年をとれば何もする事がない、と言う方もおられる。しかし、先日も書いたが、年寄りは、努めて若者と接する機会を作り、恥ずかしがらないで、語り、かつ、書き残しておいて欲しいと思う次第である。(了)