「思い出を語る会」
江嵜企画代表・Ken
元旭化成専務、杉本文男さんの「思い出を語る会」が4月27日午前11時半からJR大阪駅、ホテルグランヴィア大阪、20階「名庭」で開かれ参席した。学友関係、知人友人、旭化成関係の皆さん入れて89名が集まった。
杉本さんはスイセンの花をこよなく愛しておられたそうだ。驚いたことに、訃報を聞いた後、ご自宅の霊前にお供えした小生が描いたスイセンの画が思い出アルバムを並べたテーブルの上に故人愛用のハンチング帽に添えて立てかけられていた。ご遺族のご厚志を強く感じた。
司会は佐藤昌道さんがつとめた。中村久雄さんが最初に挨拶された。「杉本さんは戦後の財閥解体で当社退職を余儀なくされた父上の遺志を継ぎたいという強い意志で当社に入られたと想像しています」と話を始めた。迷ったときは『何が一番大事かと考えろ』と杉本さんから教えていただいた。」と話を続けた「レーヨン3社のクラレの中村尚夫さん、ユニチカの田口圭太さん、杉本文男さんの3人は大の仲良しだった。当社はレーヨンが残した20億がオイルショック、そのあとの危機乗り切りの原動力になった。永六輔さんは「人間は二度死ぬ。人の記憶から消えるときが二度目の死だ」と話していた。杉本さんは今日集まった人,今日来られなかった多くの方々の心の中に今も生きておられます」と話して挨拶を終えられた。
2番目に菅正友さんが挨拶された。菅さんは「杉本さんと子供の時からのお付き合いで75年になる。4つ違いだが誕生日が同じ。杉本さんにはいろいろお世話になった。ご冥福を祈ります」と挨拶を終えられた。
3番目に都筑馨太さんが挨拶された。都筑さんは94歳。この日参席者で最高齢。「昭和18年、それまで26歳以上からだった召集令状が20歳以上からに変わった」という言葉から挨拶が始まった。「その時大学2年だった。杉本さんとは4つ違う。戦争が終わりサイパン島から帰還。旭将軍から旭化成の名がつけられた。日本窒素肥料から生まれた。当時、株も日窒が70%持っていた。旭化成といっても誰も知らなかった。東京の事務所は物置同然だった。事務所長に宮崎輝さんがいた。エレベーターは物を運ぶもの。重役も乗れなかった。そういう時代を乗り越えて今がある。宮崎輝さんともうひとり忘れてはならない人が野口遵さんだ。二人は旭の恩人ではないか。ヘーベルの名前はドイツの企業からとった。住宅事業が誕生した。」と一気に話された。都筑さんは「間に合って今日話ができたのは、見知らぬお若いご婦人がそこの通路の傍まで案内してくれたお陰です。それは日本人の思いやりの心です。東京から新幹線で来た。間にあって良かった。」と挨拶を終えられた。
ここで司会者から挨拶2本の紹介があった。今年94歳の日本合成繊維新聞の田浦さんは杉本さんと長年親交があった。よんどころない病気で参席できなかったが杉本さんに捧げてほしいと与謝野鉄幹の「人を恋うる歌」の中から一節が司会者から読み上げられた。
4番目に伊藤一郎さんが挨拶された。「合繊の仕事が多かったので杉本さんが直接の上司の経験はない。昭和48年、繊維企画時代どん底に落ちた。3ページの報告書を杉本さんに持参した。1ページ目の最初の5行から細かく聞かれた。細かいところまで気が付かれる方だとその時知った。今一つは、レーヨン事業撤退の際、杉本さんに「申しわけありません」と言ったら「君が謝る必要はないよ。」との杉本さんからの一言が忘れられない。」と話された。
喪主を務められたご長男の杉本孝生さんは「化繊一代」にもありますが父はがむしゃらに仕事に打ち込んでいた。人と話すことが大好きだった。次々質問し、説明を求めた。多くの方にご迷惑をかけたと思います。重ね重ね感謝申し上げます」と挨拶され午後1時半にお開きとなった。
私事になるが、筆者が化繊協会退職後も一昨年まで杉本さんからいただく年賀状に一筆添えられてあり、お言葉に甘えて食事をご馳走になった。時間が経過してもなかなか解放いただけないときもあったが貴重ないろいろなお話を聞く機会に恵まれた。
医学生は兵役をまぬかれるからと、東大から長崎医大へ転校、原爆の被害に遭った同級生の話はなかでも印象に残る。長崎からの帰路、原爆が投下された直後の広島の町を列車の窓から見た光景が目に焼き付いていると杉本さんが話された言葉は忘れられない。三島でのアクリル事業で公害問題をめぐり、地域住民と和解が成立したお話では、人間杉本、ここにありを実感した。合掌。(了)
「思い出を語る会」