西宮の名医、原老柳のこと;講師、古西義麿先生
江嵜企画代表・Ken
西宮文化協会2月行事として2月17日(水)午後1時半から、西宮神社会館で、『西宮生まれの名医、原老柳(はらろうりゅう)』の話を講師、緒方洪庵記念財団、古西義麿先生から聞くことができた。いつものように会場の様子をスケッチした。
老柳は天明三年(1783)、医家、戸田宗哲の長男として西宮札場筋に生まれた。長じて「学の洪庵か、術の老柳か」と呼ばれたという。当時の『医師番付』が残っているが、老柳は名医の誉れ高く、大関の最高位、緒方洪庵は関脇だった。幕末の洋学教育に巨大な足跡を残した。
戸田家は代々医を業としていたが、祖父宗哲のころから医名が知られるようになった。父、吉信は老柳が3歳の時なくなった。妻子を残し遊興にふける老柳を母は勘当、戸田姓を使わせなかった。
老柳は、1811年、28歳の時に大阪備後町で開業した。放蕩はその後も続いた。長崎、江戸を経て1815年,伊丹で開業、1818年に勘当を解かれたが、その年に母せい子没す。1825年に再び大阪で開業、29年間つづけた。
1854年,西宮でなくなった。72歳だった。遺骸は西宮茂松庵に甕棺に土葬された。昭和5年に満池谷墓地に移された。甕棺を開けたとき、埋葬時のままだったのが外気に触れて一瞬に崩壊、強い異臭を放ったと伝えられる。
老柳を語るには交友関係の広さである。老柳は、医学のほかに漢詩,和歌、俳諧、連歌、謡曲、書、囲碁にも優れていた。「適塾」を開設した緒方洪庵や頼山陽、篠崎小竹など多くの文化人とも交流があった。老柳は緒方洪庵の「除痘館」建設に尽力した。
緒方洪庵は1862年に痘苗を入手、大坂に「除痘館」を建てた。老柳は遊学中に種痘を学んだ。分苗所(ワクチン分与)として緒方洪庵21ケ所、老柳16ケ所あった。老柳は牛痘種痘への取り組みは医師の衿持としたと伝えられる。
講師の古西先生によれば、遊蕩も老柳の交友関係の広さを助けたが、遊蕩は医者として人間観察力にも力を貸したかもしれないと話した。精神科医、診察内科医として生かされた。老柳は人情医者で、貧しいものからはお金は取らなかった。診療費や薬代の代わりに大根、米、アユなどを家の前に並べたという。
緒方洪庵の名は教科書にも紹介され、日本人で知らない人はいないかもしれない。しかし、戸田老柳は、「学の洪庵か、術の老柳か」と称された江戸時代きっての名医だった。文化人としても欠かせない人物だったことも今回の講演で、初めて知った。貴重な機会をいただいた西宮文化協会にひたすら感謝である。(了)