常識的であり同感できる内容なので、是非お読みください。
『from 911/USAレポート』第691回 「戦後70周年において『謝罪』は必要か?」
冷泉彰彦:作家(米国ニュージャージー州在住)
結論部分の一部を抜粋
そのように問題が深刻化した中で、具体的にはどうしたらいいのでしょうか?
一つは「70周年談話」には「謝罪」の意味合いは必要だということです。ただ
し、過去の村山談話や、昭和天皇、今上天皇の「お言葉」がそうであったように、現
在の日本の「国のかたち」が何か「悪なるもの」を継承しているとか、「物的な戦後
補償を永遠に続ける」といったものではありません。あくまで象徴的な意味で「最後
の世界大戦における永遠の敗戦国」という「役割」を理解しているし、そのような戦
後の国際秩序において「信義ヲ世界ニ失フ」ことはしないという理念的な意味合いで
あり、それ以上でも以下でもないということを明確にすることです。
つまり「今の日本を肯定することは、過去を否定する ことである」と同時に「今につづく
歴史の流れの連続性を確認するのであれば象徴的な謝罪の姿勢は自然と出てくる」という事になります。
それでも「生まれながらにしてそんな面 倒な国に生まれたこと」は承服しがたいという世代的な問題は残ると思います。
そこ は教育の問題であり、国のかたちの「根幹」の部分であるわけですから、狭義の教育だけでなく、
世論における広範な議論などを通じて継承して行くべきであると思います。
もう一つは、例えば靖国神社参拝の問題や、歴史認識の問題で「枢軸国の名誉を回 復し、
戦後の国際社会の前提を否定する」というような印象を、国際世論に与えてい るのであれば、
その誤解を解く努力をするということです。
例えばアメリカなどからは許されている」から「いいじゃな いか」というような「甘え」の姿勢では、
やはり中国や韓国だけでなく、例えば欧州 諸国や豪州などからも場合によっては外交カードとして
切られてしまう「隙を見せ る」事になります。日本の国益にとってマイナスは測り知れないのです。
その意味で、例えば第二次大戦における枢軸国としての振る舞いに関して否定的な
意見のことを「自虐」だという言い方、「反日」だという言い方は非常に危険である
と思います。戦後の官民挙げての努力で国体が浄化された以上、その平和国家日本の
観点からは、枢軸国としての振る舞いに関しては否定的であるのが「現在の国のかた
ち」に適っているのであって、そうした言動のことを「自虐」だとか「反日」だとい
うのは、正に「枢軸国の国体から変化していない」という誤解、そしてそれ故の「侮り」を
受ける「スキ」となるからです。
最後に一点補足を申し上げておきたいと思います。歴史認識の問題に関して「未来
志向」という言葉があります。これは、日本の漠然とした感覚、つまり「いつまでも
過去の謝罪を強いられては、相手への悪感情ばかりが充満するので、過去の歴史問題
ではなく、未来の協調関係に関して語りたい」というホンネをそのまま口にしたもの
だと思います。
ですが、これを言うことと同時に「過去を謝罪することへの疲れ」から「枢軸国の
名誉を回復すれば、謝罪者をイヤイヤ演ずることから逃れられる」というもう一つの
ホンネが合わさってしまうと、もうこれは「謝罪や恭順から逃げたい」という消極姿
勢、加えて「謝罪強要には応じない」という拒否の姿勢になってしまうわけです。そ
んな構図になれば、関係悪化の回路は更に高速でグルグル回ることになるわけで、も
うこの「未来志向」という言い方は事態を改善する効果はなくなっているように思う
のです。
今回の『21世紀構想懇談会』に関しては、懇談会の名前自体に、この「未来志
向」というプラス効果の期待できないレトリックが投影されているように思います
が、それはさておき、効果のない「未来志向」という文言にこだわらずに、戦後の
「浄化された国体」になってからの一連の「謝罪」を継承することが必要と思いま す。
その意味としては「国体を連続的に継承したことから来る象徴的な恭順国家論」と
いう「かたち」の確認、と「明らかに浄化された国体から見て枢軸国の時代は否定の
対象となる」という価値観の確認という意味です。間違っても、現在の日本が悪しき
存在であり、したがって謝罪をするべき存在という意味ではないのです。
JMM(ジャパン・メール・メディア)は村上龍が編集長として発行するメールマガジン
により配信されたものです。