人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

予言、流言に迷うな!

2023-05-06 09:58:15 | 人生の教師
石川、能登で震度6強の地震!
自分の居住地で起これば勿論のこと、こうした報道に接する度に、私にはとっさに”世界平和の祈り”が出てしまいます。
表向きにはそれから離れていた時期も長くありましたが、なんだかんだ言って、私には五井先生の残された道が根付いているのかな、と感じています。
以前に、あの祈りは、”ダイレクトに神的なものにつながるには適していない”、みたいなことも書いたりしましたが、”それはそれ”、そういう祈りが出るのも自然なことでしょう。
ああいう事象にあって、”恐れてはいけない、不動心を持て!”、何ていうのは無理な話ですが、だからこそ、祈る必要があるのです。何よりも安らぎを得られるのですから...
五井先生には、そのように、恐れる思いから離させる、という意図がはっきりありました。
近未来に大地震が起こるとか、理想天国のような世界が開かれる前に大天変地異が起こる、何ていう予言も断固として先生は否定していました。
しかしながら、表向き五井先生の道を継承しているかのような装いを持ったカルト的な一派では強固にそうした終末予言が信じられているのです!
未来のことなんか、一分先のことだって確かなことは分かりませんよ!
だけど、これだけは言える!...阿鼻叫喚の地獄の様態が来るのを信じ込むことは、地獄的想念に囚われているのだ、と。
何と五井先生の心とかけ離れていることか!...予言と結び付いて知られている「日月神示」でも、終末予言に囚われるのは、魔に通じている、と示されているではないか!
これ、そのカルトで同じように信じられている、陰謀論に絡めた、フリーメーソンだか陰始だかの”闇の勢力”への”熱心な信仰”にも伺うことが出来ます。
もっとも私自身は、陰謀自体は否定していません。多くの人たちにも多分、この国にも、世界にも薄気味悪いものが取り巻いているであろうことは、何となく感じていることでしょう。
私はただ、マヌケな(確かな根拠など全く抜けた、それについて考えようともしない子供じみた)陰謀論を否定しているのです。
しかし、もっとも肝心なことは、未来の予言、否流言と同じく、自己の深いところでどこに意識が向けられているか、ということではないでしょうか?!
天災も、魔の暗躍もあるかもしれません。
しかし、それも自己の内奥に息づくものに照らせば、その恐れも疑心暗鬼の思いも、移ろいゆく表層部分でのこと、ということになるでしょう。
これも、五井先生は消えてゆく姿として説いていたことです。
私は手放しで、”それは消えているのです!”、ということは言えませんが、少なくとも地獄的想念からは離れることは出来ます。
あなたの本心は何を望んでいるのか、何を信じているのか?...
祈りを通して、あなた自身に尋ねてみて下さい!

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”イン”

2023-02-25 09:27:39 | 人生の教師
「”私はキリストの内に、キリスト私の内に”、というのは形容的に言っているのですか?、形容じゃないですよ、現実ですから!、だからインの世界に入るのです」(小池辰雄)

小池先生はさかんに、”○○の中に入る、○○の中に”、ということを言われていました。
先生の場合は、キリストであった訳ですが、”信入、祈入...”といったように、とにかく入らなければダメなんだと!
この”イン”、というのは、”入る”ということでもありますが、すでに中に在るということでもあります。入って来るものがある!...それを受け”入れる”ことなんです。
これは、すべての宗教やスピ、精神的な道の焦点と言っても過言ではないでしょう。
何が焦点って、意識が自ずとある焦点に収斂されてゆくことでもあるんですから!...
思いを”入れる”...思いから離れる、意識的になる~意識世界に入る...それは同時に神、キリスト、如来といったものが、真向かいに顕わになるということなのです!...つまりはそういう現臨に在る、ということでしょう。
中に入らない、思いを超えた消息が分からないから、真偽の分からないことを妄想したり、エセ教師だとかに迷わされてしまうのです。インしてこないのは、アウトですよ!
そうして、いつまでも実存世界の外側、思念世界をグルグル回り続けているのです。
中に在るということは、神を傍観者のように見ていることじゃない!、いや見ているように感じない!...一枚、一如になっていることなのだから!
精神的な道では、否人生では、この”中に...”、という契機となるものに出会えるかどうかということが非常に大きいことです。
私などは最初、小池先生のそうした言葉に触れても、どうしたら中に入ることが出来るのか?、とか考えてしまったものです。
”これじゃ、アウトかな?”、なんて!...だけどどうしてもそのことが意識に植え付けられてしまったか、拭い去れないものを感じていたのです。
○○の中に入る、中に在る...きっと劇的に人生が変わるようなスッバラシイことに違いない!、と。もう、先生の書き物を読んでいるだけで幸福になっていました。
な~んてことはない!...私はすでに”入って来るもの”に捉えられていたのでしょう。
その中には、愛、平安、リアリティがあるのですから!
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自分のこととして...

2023-02-19 09:35:55 | 人生の教師
トルコ、シリアの大地震...正直、我が国のことでなくてよかったと思う...
どっかの国で起こる度に...いや、自分が住んでいる地域以外で起こる度に、自分に被害が及ばなくてよかったと思う...
自分に被害が及んでいたらと思うと...
”あの地震は、日本で起こるはずのものがまつり代えられた!“、という妄言を非難することなどとても出来ないが...
でも、それはやっぱり言ってはならないことだろう!
他人ごとのように平然と言うことなど!...
彼らは我が身の代わりに!...事実がどうであるかはどうでもいい!...何にも出来ないけれど、対岸の火のように思えない、してはならない心情はどうしてもある!

あの40年以上も修行を続けていて、未だに他人の言葉に追従するしかノウがなく、妄言を発し続けている御仁!...
数年前、“五井先生の教え以外の宗教は、すべて闇の結社フリーメーソンの息がかかっている!”、と言い放った時は、“コイツ、もう完全に終わったな!”と思った!
しかし、その後も何度も懲りずに、どうしてもそういうこと言わなきゃならないカルマがあるのか、妄言を繰り返し続けている!...
何回終わったな、と思ったことか!...終わらないカルマ!
そして、それについて突っ込まずにおれない私!...終わらないカルマ!
決して気分がいい訳がない!...ああいうことを言わなきゃならないのも同じだろう!...
いい加減、終わりにしたい!

あの御仁、ひょっとして私の代わりに!
私の中には確かにああいう“狂相”がある!、そういう因子がある!...それは、すべての宗教、スピの世界に付きまとっているものだろう!
私がそれを表に出さない代わりに彼が!...恥ずかしくないのか?...何十年も、未だに!
私はあの反面教師のおかげで、どんだけ我が身の鏡を見るようにも気づきに与ることが出来たことか!(皮肉だけで言ってるんじゃないぞ!)
いや、ご苦労さんなことではないか!
同年代、共に五井先生との縁を頂いて、ほぼ同じ年月が経つ...他人とは思えない!
“あんなヤツとは関わるのはゴメンだ!“とは思っても、カルマはそうさせてくれないらしい?...
何か“消えてゆく姿の教え“の重みが初めて感じられるようになった気がする...
“Tさんの天命が全うされますように“...これが私の祈りに出来るのかな?...“我が主よ!“
自分に省み、自分のこととして祈ること!
“トルコ~シリアの人たちの天命が全うされますように“
“世界人類が平和でありますように“
苦節40数年、初めて五井先生の教えに向き合えたような気がする!...

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十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!

2022-09-08 10:21:40 | 人生の教師
「十字架と聖霊は切り離すことは出来ない!」
この言葉は、小池辰雄先生から何度も直接お聞きましたし、書かれたものにも接してきました。
そして、この私もここで何度となくそのことについて書いてきました。
くどいようですが、このことはいくら強調してもし過ぎることは無い、と感じてやまないものがあるのです。
(神の現臨たる)聖霊を受けるという。さらにそれが深まると聖霊のバプテスマに与るという。これは広く宗教的回心、覚醒、悟り体験の一つと言ってもいいでしょう。
それは、人間のレベルを超えた、超人、神と一つになった境地へと進化することのように思っている人も多いでしょう。
しかし、この思われたままの自分が、その延長として連続した形で、そうした境地に達する、という風に捉えられているとしたら、それは正にそう思っているだけのことでしょう?
古来から宗教的伝統で無になるとか、空になるとか言われていることは、宗教的回心、覚醒には思いを超えなければ開かれない、ということを伝えているに他なりません。
一体、手放しで、その思っている自分が、自分から思いを超えることなど出来るでしょうか?
よく考えたら分かることじゃありませんか?!
つまり、思われた世界と思いを超えた世界とは非連続になっているのです。その際に自己を超えたものが切り込むように臨むもの...それが聖霊です。
短絡的に人間は、今の段階より段々神の段階へと進化するものだ、と思っているとしたら...その思いは消えてしまうかもしれません!
聖霊が臨み、それを深く体受することは、思いを無化させられることだから...
そういう思いにずっと駆られていることよりも、神のハンマーを受けて“断念“させられる方がはるかに重要なことではないでしょうか?
そうでなければ、どうして神、キリスト、如来と一つにつながることなどあり得ようか?!
まことに、真に自我に纏わる思い、自我性の突破無くしてあり得ないではないか?!
小池先生が示された十字架とは、こうしたことに深く関わっていたのです。
聖霊を受けることは、十字架を背負うこと、否同時に受けることです。これは、不離一体!
通常のキリスト教の教えでは、それは(私には到底手放しで出来そうにない)苦難を背負うこととして理解されているようですが...恩寵の事態というものは、苦しさに耐えるような、そんな(思っているような)世界では全くありません?!...何故ならば、それは愛、平安と切り離されないものだから...
先述したように、幾多もの宗教的伝統では、無、空に至る道が説かれているのですが、小池先生のように、具体的に、霊的実存に照らされて示された例は、私は寡聞にして知らないのです。
ただ惜しむらくは、十字架と聖霊という、如何にもキリスト教だけにしか通じない用語によって語られているために、その内実は普遍性へと向けられているにも拘わらず、ごく一部のキリスト教関係の間に留まっているということです。
万人に向けられているものほど埋もれている...全くどっかの一風変わったブログで取り上げるのが相応しいのかもしれません...。


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ベルジャーエフと私

2022-09-02 10:09:12 | 人生の教師
「真の人間性においてあらわれるものは、人間の性質ばかりでなく神自身でもある」
(ベルジャーエフ「神と人間の実存的弁証法」.著作集第六巻所収/白水社刊)

前々回、神と人間の関係について、思うところを書いてみたのですが、あまり意識してはいなかったのですが、どうもベルジャーエフの思想の根幹的な部分とつながる内容になってしまったようなのでした。
確かに超越者(神)と人間実存とのつながりに関する理解は、ベルジャーエフに負うところが大きいと言わねばなりません。
これはしかし、言い表そうにも言葉を持つことの出来なかった私に、言葉が肉化するようにもインスピレーションが与えられた、という感じを持っているのです。
真に、“超越することと実存することは切り離すことは出来ない“、ことを今もヒシヒシと感じながらこれを書いている次第なのです。
又、このことをアリアリと示されることに与った、その端緒がそもそもベルジャーエフの本を読んでいる中での、真の意味での啓蒙(自己の暗部に光が差し込み、照らされること)体験にあったのだから、とても深い縁というものを感じずにおれません。
では、私がこの読書界においてさほど認知されてないであろう、旧ロシア(今のウクライナ)の哲学者のことをどうして知ったのでしょうか?
彼自身が語っている、彼に影響を与えた思想家として、カント、マルクス(多く批判の対象にされているのであるが)、ドストエフスキー、二ーチェなどの名を挙げることが出来るでしょう。
いずれも、哲学思想に関心無くとも知らない人は居ないであろう、高名な思想家ばかりですが、私は彼を知るまで、その誰の本をも読んだことはありません。
否、哲学思想関係の本は、プラトンの「ソクラテスの弁明」を僅かにかじっただけで読んだことが無いのです。きっとこれに怪訝な、あるいは驚きの感情を持たれる方もおられるでしょう。何せ、小難しい屁理屈ばかり並べ立てる哲学なんてシロモノは、私の肌には合わなかったのです。
もう、タイトルを見ただけで偏頭痛が起こりそう...“あに~、「神と人間の実存的弁証法」だとお!“...ベルジャーエフ?、ハテ?、え!、訳者小池辰雄!、これかあ!、どれどれ...“
と、昭和54年秋、その池袋にあった大型書店でその本を見つけて、立ち読みしてみたのです。
“おっ、これは読めるぞ!、買っちゃえ!“
どうせ、買ったって読まないだろうとは思いながらも、小池先生所縁だし、思い切って求め、喫茶店で腰を落ち着けて読んでみました。
“うん、うん、やっぱりこれは読める!、何が書いてあるかサッパリ分からないが...“
と、何かぐいぐいと引き付けられるのを感じて読むともなし、眺めるともなしという時間を過ごしたことを今でも思い出します。
ところが、これに気を良くして他の哲学書をかじってみると...“あかん!、偏頭痛がして来て読めん!“
この違いはどこにあるかはハッキリわかります。論理的か、超論理的?(ベルジャーエフ)か、という文章スタイルの差も大きいですが、彼は思いを超えた世界に開かれた、ある意味“哲学者らしからぬ哲学者“だったということです。
それが、私が初めて本格的に取り組んだ哲学書、共感した哲学思想家だったという訳です。
上記した理由で、あまり多く哲学に接したことはありませんが、かくも私の実存を映し出す思想家には他に出会ったことがありません!...
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