人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

依存と帰依

2017-01-07 12:39:20 | 求道、探究
反スピ、脱スピなどから散々宗教依存、スピ依存について取り沙汰されたりしますが、人間には依存は付き物と言ってもよく、現実生活で雁字搦めになっている人は脱現世依存からスピに赴いたりするわけです。この依存ってこと自体悪かろうはずが有りません。
人間を初めあらゆるものが相依り合って生きているものです。
私がここで取り上げるものは、主体性無く短絡的に他に”依りかかってしまう”という精神の有り様のことです。
それはよく現実逃避と結び付けられるものですが、それは取りも直さず現に考え、味わい、感じて生きている自己…主体からの逃避ではないでしょうか? 現にここに生きている主体を蔑ろにして、神や教祖や教えなど外なる権威に丸投げして取りすがろう、とするのです。そしてとにかく無批判に信じ込み、捉われた思念で頭がいっぱい…元々与えられている考え、感じる機能を封じ込むように…これではいつまでも経っても”現前に現実は開かれてきません”。
自立心の欠如などとも言われますが、一人の独一無比の人格が外なる権威への迎合の前に押しやられているのです。
これは繰り返し言うように自己信頼の欠如からくるのです! 
自分を愛し、許し、信じることが出来ない…
最近では色んな人が言っているので耳にタコが出来るでしょうが、今巷で自己を受け容れられないところからくる満たされない思いが、暴風のように吹き荒れている様相を見せられているようで、言わずに居れない気持ちにさせられます。
そしてこの自己信頼を抜きに覚醒などを目指すなんてことは、自殺行為に等しいものです!
主体性を欠いた空洞化した精神に外なる神(これは神ならぬもの)の侵入を許してしまう…主体性は別の何ものかに乗っ取られるに至る。これは洗脳のプロセスです。覚醒というものが霊的進化とか何かの目的に据えられる時、歪められた精神が介入します。
これを目論む悪質な集団もありますが、自己不信から自ら陥ってしまう者も後を絶ちません。この事は自殺の増加と無関係ではないでしょう。
この主体性を欠いた依存と紙一重なもので帰依というものがあります。
帰依と言っても、ここでは単なる信仰の拠り所とする以上の托身、明け渡しという事を含めて言っています。
この明け渡しの契機には、自己否定が有ります。自己は無きものにされなければならない…
”は?…自己否定…自己信頼、自己肯定ではないの?”
そうですね…意味は反対でも同じことです。それまで限られた思いの中でこうである、何であるという自分の否定です。
そういう事は限られた自分の思い、力では出来得ません! そうさせる、あらしめるものに任せるっきゃありません!
”だけど、この現に生きている自分のことはどうなるの…” そう、まあ…しかしですね、あなたはこれまでホントに”私は現に生きている、私はここにいる”という実感を持ったことなどあるでしょうか?
恩寵、現臨のハタラキというのは、我々に部分的にハタラクのではなく、全的にハタラクのです。
このものに有って初めて我々は全身、全霊的なものとなれるのです。
あなたの思われたものでない、自己そのもの、大本の自己への全き信頼が呼び覚まされるのです。
自己への信頼と現臨への信頼とは切り離されるものでは有りません。天来の火と内なる火はつながっているから…
宗教的帰依、明け渡しの道は、宗教的依存のように見えて実は極めて主体的な有り様であり、天と地ほどもかけ離れているのです。
特別な帰依の対象が有ろうとなかろうと、我々が最善、最愛に感じられるものへの帰依こそは、主体性の回復、真の自己の回復につながるものと言えるでしょう。
帰依の感情が深まれば、自分が愛されている、あちらに呼び起されている、という実感を持つようになります。それに合わされることで、この愛と切り離された覚醒モドキでない、明け渡しの契機も生まれることでしょう。









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