私は、手島郁郎先生や小池辰雄先生との出会いから、キリスト教に伝わる聖霊のバプテスマなるものによって、回心、人生を変えるような意識の変容というものが有る、という事を知らされたのでした。
ところが同じ聖霊を強調する教派でも、欧米直系の所謂カリスマ運動とか、ペンテコステ派などと言われる教派などにはほとんど関心が向くことはありませんでした。
”初代教会に見られた聖霊の命のたぎった福音に立ち返ろう…”似たような事が主張されるが何かが違う…
そうした著書を読んでいても、ダイレクトに惹きつけられていく感じでは無く、何か外側から暗示を掛けられていくようなものが感じられました。
そして、何となく読めてきました。”これは教理を植え付けようとしているのだ”、という事が…
こうした福音集会の中には、インチキもあるそうですが、本当に霊的な力が認められる場合もあり、そこで所謂聖霊体験というものもあるかもわかりません。
これも一種の覚醒体験とも言えるかも知れませんが、そのすべてが私がこのブログで書いているような全託を伴う道に通じるかどうかは疑問です。
何故ならば、教理、教会、権威などから自由でないままで、すべてを放し、託すという事はあり得ないでしょうから…(人は皆何かに依りかかって生きているものですが、程度というものはあれ、偏ることでどこか歪みが生じるものです)
杞憂すべきは、そうしたものに捉われたままであっても、ある霊的な力によって、それ相応の有り様で意識が変容する事も有り得、その捉われている部分が強化され、その分”狂信性”が生み出されることになりかねない、ということです。私はこういう事例のいくつかを知っているのです。
狂信者の特徴としてとにかく自分が信じている対象(神、教えなど)については過度な熱狂を示すものの、信じている主体、つまり自己そのものには意識が向けられない…要するに自己信頼が欠如しているのです。
(この事は勿論様々な道についても言えるものであるのは言うまでもありませんが、ここではキリスト教の関連で述べさせてもらっているのです)
自己信頼というものを欠いては、自身の内側は蔑ろにされ主体性を失ってしまうでしょう。
聖霊というか、恩寵の光が臨むと、自己の内部が照らされ開かれてきます。そこに全幅の信頼が生まれるのです。
そしてそこから思われたままの自分が突破されて、”我ならぬ我”、真我と相見えるのです。
それは全く未知の自分であると同時に、自分が生まれる以前から(ひょっとして二千年前から?)知っている自分なのです!
新約聖書マルコ伝15章に、イエスが十字架に掛けられて最後に叫ぶや、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という記事がありますが、これは覆い無しに、あらゆる介在、夾雑物は取り除かれ直接キリストと相見えるようになった、という事を象徴しているのでしょう。それは又内なる神性の回復とも感じられます。
「このダメな、チッポケな自分がそのままキリストと一つにされる…十字架を通して…」これは小池先生が常々語っていたことですが、教理を信じてそうなるんじゃありません。聖霊の直接的な身受、体受(先生の造語)を通じてです。十字架は又全託に通じているのでしょう。
ところで私が恩寵の光、現臨に捉えられる、と言っているものが聖霊体験なのか、どうかは分かりません。小池先生が亡くなってずっと後の集会でそのような事も有りましたが、それでクリスチャンになった訳でも無く、我ならぬ我に出会わされるのです。
前記のカリスマ運動などでは異言や預言など聖霊体験に伴う超自然的な力を求めることを強調したりしますが、その事と真我の目覚めとは何の関係もありません。
キリスト教に限らず真我、自己の本心が開かれることのない、主体性を欠いた宗教的回心というものに何の意味があるでしょうか?…又、自己の無化に向かわない、中途半端な全託はキケンという他ありません。
私はこのように聖霊体験というものが有ると知り、無性に惹きつけられたのですが、反面”自分の意志に反してクリスチャンになったらどうしよう…”などという変な了見もあり、又見た目何かに憑かれている様で”アブナイ…”とも感じていたのです。(後年別の場で自分自身がアブナイようなことになりましたが、何かに憑かれ、操られるという事は無く、前述のような事を実感したのです)
それが、いつの間にか、目の中のそういう覆いは無くなってしまいました。
覆いが無い…夾雑物の無い直接性…それは自己の内と外が信頼で結ばれるもの…ということを覚えるようになったからです。
”十字架と聖霊は切り離されない”(小池先生)ように、自己信頼と宗教的回心も切り離すことが出来ないものでしょう…。
ところが同じ聖霊を強調する教派でも、欧米直系の所謂カリスマ運動とか、ペンテコステ派などと言われる教派などにはほとんど関心が向くことはありませんでした。
”初代教会に見られた聖霊の命のたぎった福音に立ち返ろう…”似たような事が主張されるが何かが違う…
そうした著書を読んでいても、ダイレクトに惹きつけられていく感じでは無く、何か外側から暗示を掛けられていくようなものが感じられました。
そして、何となく読めてきました。”これは教理を植え付けようとしているのだ”、という事が…
こうした福音集会の中には、インチキもあるそうですが、本当に霊的な力が認められる場合もあり、そこで所謂聖霊体験というものもあるかもわかりません。
これも一種の覚醒体験とも言えるかも知れませんが、そのすべてが私がこのブログで書いているような全託を伴う道に通じるかどうかは疑問です。
何故ならば、教理、教会、権威などから自由でないままで、すべてを放し、託すという事はあり得ないでしょうから…(人は皆何かに依りかかって生きているものですが、程度というものはあれ、偏ることでどこか歪みが生じるものです)
杞憂すべきは、そうしたものに捉われたままであっても、ある霊的な力によって、それ相応の有り様で意識が変容する事も有り得、その捉われている部分が強化され、その分”狂信性”が生み出されることになりかねない、ということです。私はこういう事例のいくつかを知っているのです。
狂信者の特徴としてとにかく自分が信じている対象(神、教えなど)については過度な熱狂を示すものの、信じている主体、つまり自己そのものには意識が向けられない…要するに自己信頼が欠如しているのです。
(この事は勿論様々な道についても言えるものであるのは言うまでもありませんが、ここではキリスト教の関連で述べさせてもらっているのです)
自己信頼というものを欠いては、自身の内側は蔑ろにされ主体性を失ってしまうでしょう。
聖霊というか、恩寵の光が臨むと、自己の内部が照らされ開かれてきます。そこに全幅の信頼が生まれるのです。
そしてそこから思われたままの自分が突破されて、”我ならぬ我”、真我と相見えるのです。
それは全く未知の自分であると同時に、自分が生まれる以前から(ひょっとして二千年前から?)知っている自分なのです!
新約聖書マルコ伝15章に、イエスが十字架に掛けられて最後に叫ぶや、「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」という記事がありますが、これは覆い無しに、あらゆる介在、夾雑物は取り除かれ直接キリストと相見えるようになった、という事を象徴しているのでしょう。それは又内なる神性の回復とも感じられます。
「このダメな、チッポケな自分がそのままキリストと一つにされる…十字架を通して…」これは小池先生が常々語っていたことですが、教理を信じてそうなるんじゃありません。聖霊の直接的な身受、体受(先生の造語)を通じてです。十字架は又全託に通じているのでしょう。
ところで私が恩寵の光、現臨に捉えられる、と言っているものが聖霊体験なのか、どうかは分かりません。小池先生が亡くなってずっと後の集会でそのような事も有りましたが、それでクリスチャンになった訳でも無く、我ならぬ我に出会わされるのです。
前記のカリスマ運動などでは異言や預言など聖霊体験に伴う超自然的な力を求めることを強調したりしますが、その事と真我の目覚めとは何の関係もありません。
キリスト教に限らず真我、自己の本心が開かれることのない、主体性を欠いた宗教的回心というものに何の意味があるでしょうか?…又、自己の無化に向かわない、中途半端な全託はキケンという他ありません。
私はこのように聖霊体験というものが有ると知り、無性に惹きつけられたのですが、反面”自分の意志に反してクリスチャンになったらどうしよう…”などという変な了見もあり、又見た目何かに憑かれている様で”アブナイ…”とも感じていたのです。(後年別の場で自分自身がアブナイようなことになりましたが、何かに憑かれ、操られるという事は無く、前述のような事を実感したのです)
それが、いつの間にか、目の中のそういう覆いは無くなってしまいました。
覆いが無い…夾雑物の無い直接性…それは自己の内と外が信頼で結ばれるもの…ということを覚えるようになったからです。
”十字架と聖霊は切り離されない”(小池先生)ように、自己信頼と宗教的回心も切り離すことが出来ないものでしょう…。