最近、ネットを見ていてどうも悟り、覚醒、ノンデュアリティなどの言葉の使われ方が錯そうしているように感じています。
これらは感覚的な事に基づいているため、確たる定義など成り立たないものであるのは言うまでもありませんが、このように元々がアヤフヤな土壌の上に、一昨年辺りから悟り系スピなどでにわかに如何にも”これがノンデュアリティ”といった紋切型の言説が流布し初め、その虚無的空気感で実体の定かでない悟り、覚醒のイメージを作り出してしまったように思えます。
私自身は元々非二元だの、二元だののことをほとんど問題にしたことがありません。
ただの感じ方、観方に過ぎない、と思っていましたから。
問題は如何に幸福であるべきか…これを思わない人間など居るだろうか?
悟りというものが有ったとしても、幸福でないものが一体何の意味があるだろうか…そしてそれは当然の如く全くもって現にこうして生きている私にとっての問題だったのです。
何度も触れているように30数年前、突如意識が飛びそうになったことがあるのですが、これは意識の変化に伴う一時的なアンバランス状態と理解していますが、その時思考機能は失い、自分という個的な感覚も無くなり、意志的に何かをしようというものが抜け落ち、事が起きているだけという感じになります。最近のノンデュアリティではおなじみのフレーズですね。こういう事を悟りとか覚醒という風に観る向きもあるようですが…それって”ホンマでっか!”
そこでは苦しみ、悩みというものは感じられませんが、この後実感したような高揚感、幸福感というものも無いのです!
(これはそうした苦境を通っているからこそ実感したのです。”私はここにいる”という意識の発揚と共に…)
ただ自分が奈落の底か虚空に消えて行ってしまうような恐怖感だけが有るのです!
ズルズルとそうした方に引き込まれそうになるのですが、意志的な抵抗が出来ないのです!
ノンデュアリティの教師たちやその信奉者たちが嬉しそうに?語る非二元の境地ってこんなんですか?…ウッソでしょう!
彼らがやたらと話を盛り付ける無条件の愛、至福、調和…そんなものはありません!
如何なる幸福もそれを感じる個人が居ない…そんな世界を求める人間などこの世に居るのでしょうか?ただ苦境から逃れたいだけなのだろうか…喜びも楽しみも無く…全てに絶望した人間の行き着くところ?
永遠の死の世界…
あの人たちは本当にそんな境地に有り、そこを目指しているんでしょうか?
違うでしょ!…そんな人はきっと、薄暗い部屋でずっと何もしないで、ネットで色々メッセージを伝えることも出来ないでしょう。そもそも生きているのか死んでいるのか分からないようなメッセージなど何になるでしょうか?
愛や幸福のおとずれについて語る人というのは、それをもたらすものに触れているからこそ言い表せるのでしょう。
何でこんな分かり切ったことを伝えないのだろう…きっと彼らが説いているのは、非二元を借りた、その実(愛とか幸福とかを織り込んでる)二元的な道なのでしょう?
だからと言って、私はエセでも一元でも二元でも構やしないと思いますけど…
何が真のノンデュアリティなのか分かっても…死の世界のことは生きている世界には全くどうでもいい事ですから!
参考までですが、あくまで私なりの分離の無い、所謂ノンデュアリティについての一つの観方が有ります。
それは特定の教え、教師、方法といった間に何ものも介さない直接性というものです。(何と何の間…というより直接的なハタラキだけが有る、というニュアンスです)あなたは直に愛自体、幸福自体を目の当たりにする!
これによれば、非二元の”教え”や、”メソッド”というのはウソなのです!…教えや方法に置き換えられるものは二義以下のもの、この意味合いではそれが二元的ということです。
そのまんま直接…ということはそれだけ愛そのもの幸福そのものが真っ中心…という事です。
そして肝心な事は私があなたにこの事を伝えることが出来ない…あなたが直接触れ、感じ、味わう事を通じてのみ伝わる、という事です。
こういうものに導かれない悟りも覚醒もホントにどうでもいいのです!…愛自体、幸福自体なる御方との一義的有り様…
これが私的一元論なのです…。
これらは感覚的な事に基づいているため、確たる定義など成り立たないものであるのは言うまでもありませんが、このように元々がアヤフヤな土壌の上に、一昨年辺りから悟り系スピなどでにわかに如何にも”これがノンデュアリティ”といった紋切型の言説が流布し初め、その虚無的空気感で実体の定かでない悟り、覚醒のイメージを作り出してしまったように思えます。
私自身は元々非二元だの、二元だののことをほとんど問題にしたことがありません。
ただの感じ方、観方に過ぎない、と思っていましたから。
問題は如何に幸福であるべきか…これを思わない人間など居るだろうか?
悟りというものが有ったとしても、幸福でないものが一体何の意味があるだろうか…そしてそれは当然の如く全くもって現にこうして生きている私にとっての問題だったのです。
何度も触れているように30数年前、突如意識が飛びそうになったことがあるのですが、これは意識の変化に伴う一時的なアンバランス状態と理解していますが、その時思考機能は失い、自分という個的な感覚も無くなり、意志的に何かをしようというものが抜け落ち、事が起きているだけという感じになります。最近のノンデュアリティではおなじみのフレーズですね。こういう事を悟りとか覚醒という風に観る向きもあるようですが…それって”ホンマでっか!”
そこでは苦しみ、悩みというものは感じられませんが、この後実感したような高揚感、幸福感というものも無いのです!
(これはそうした苦境を通っているからこそ実感したのです。”私はここにいる”という意識の発揚と共に…)
ただ自分が奈落の底か虚空に消えて行ってしまうような恐怖感だけが有るのです!
ズルズルとそうした方に引き込まれそうになるのですが、意志的な抵抗が出来ないのです!
ノンデュアリティの教師たちやその信奉者たちが嬉しそうに?語る非二元の境地ってこんなんですか?…ウッソでしょう!
彼らがやたらと話を盛り付ける無条件の愛、至福、調和…そんなものはありません!
如何なる幸福もそれを感じる個人が居ない…そんな世界を求める人間などこの世に居るのでしょうか?ただ苦境から逃れたいだけなのだろうか…喜びも楽しみも無く…全てに絶望した人間の行き着くところ?
永遠の死の世界…
あの人たちは本当にそんな境地に有り、そこを目指しているんでしょうか?
違うでしょ!…そんな人はきっと、薄暗い部屋でずっと何もしないで、ネットで色々メッセージを伝えることも出来ないでしょう。そもそも生きているのか死んでいるのか分からないようなメッセージなど何になるでしょうか?
愛や幸福のおとずれについて語る人というのは、それをもたらすものに触れているからこそ言い表せるのでしょう。
何でこんな分かり切ったことを伝えないのだろう…きっと彼らが説いているのは、非二元を借りた、その実(愛とか幸福とかを織り込んでる)二元的な道なのでしょう?
だからと言って、私はエセでも一元でも二元でも構やしないと思いますけど…
何が真のノンデュアリティなのか分かっても…死の世界のことは生きている世界には全くどうでもいい事ですから!
参考までですが、あくまで私なりの分離の無い、所謂ノンデュアリティについての一つの観方が有ります。
それは特定の教え、教師、方法といった間に何ものも介さない直接性というものです。(何と何の間…というより直接的なハタラキだけが有る、というニュアンスです)あなたは直に愛自体、幸福自体を目の当たりにする!
これによれば、非二元の”教え”や、”メソッド”というのはウソなのです!…教えや方法に置き換えられるものは二義以下のもの、この意味合いではそれが二元的ということです。
そのまんま直接…ということはそれだけ愛そのもの幸福そのものが真っ中心…という事です。
そして肝心な事は私があなたにこの事を伝えることが出来ない…あなたが直接触れ、感じ、味わう事を通じてのみ伝わる、という事です。
こういうものに導かれない悟りも覚醒もホントにどうでもいいのです!…愛自体、幸福自体なる御方との一義的有り様…
これが私的一元論なのです…。