人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

悟りの道、神の道

2023-10-21 09:36:44 | 
私は、悟りとか覚醒というものをあまり意識しないようになりました。
もっばら、神との一体化、神の道という方に向けられています。
その大きな理由は、悟りというものは、得てして一個なる自分のみに意識が向けられ勝ちになるからです。
自分だけがそのような超越的な境地に達すればいいのだ、と!
この場合の超越という言い方は、”他のものを超えた、上をゆく、進む”というニュアンスのものですが、実に自我心をくすぐられるものですね。
だけど、本来悟り、覚醒というのは、そういう自我、エゴマインドを”超えた”境地のことを指しているのですよ!
この場合の超越は言うまでもなく、、思いを超える、そういう自分を超えるということです。
つまり、思い、為そうとする自分を超えることなく、その上で他を超えた、より高次元に進化した自分を追い求めるような心の在り方は、本来の悟りとはほど遠い、自我が肥大化した心根の表れということを知らねばならないのです。
しかしながら宗教、スピ界隈には、こうした勘違いした思念が付き纏っているのを感じずにおれません。
だからですよ!...私の生来からの自我心を超えせしめるもの、それは思いを超えたもの、神しかない!...これはキリストと言っても、阿弥陀如来でも、素戔嗚尊でもいい、要するに神的なもののことです。
神に意識がある時、一個の私は超えられる...ということは、それは自他を超えているということであり、私だけ幸福に与ってればいい、という思いからも自由で居られるということです。
世界平和とか世界人類というと、一寸抽象的で捉えにくいですが、神に思いを向けていると、自分のみならず、皆(すべての私と言ったらピッタリ来るだろうか?)が平安であることを願うという心持ちに自然とさせられてしまうのです。(これが私の”世界平和の祈り”?)
平安であるとは、神的なものと共にある意識状態のことです。
悟りの道というものは、本来性から離れて一個に結びつけられやすいものです。
神の道は、一個を超えた普遍に通じているのです。私には神という一語の中に自他を一つにした普遍的なものが内包されているのです。(私には宗教思想によって異なる神というものは存在しません!)
本当は、そういう二つの道がある訳じゃなく、神の道が一つあるだけなんでしょうけど...
神無くして、我々は悟りようが無いのだから!...
コメント (2)
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