人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

出来ること、意識すること

2023-10-02 09:59:00 | 意識、照明
ラマナ.マハルシに関する本、ネットの記事に触れていつも感じることがあります。
これは、ラマナ自身も講話などで言っていることですが、例えば”明け渡し”ということに関して「あなたは、完全に明け渡す必要があります。そうでなければ、自我が消滅することはないでしょう」などと説かれます。
それを受けて、あるブロガーなどは「その道は険しいですが、自我は完全に真我、神に明け渡さなければならないのです」などと書いたりしています。
しかし、完全に自己を明け渡すことの出来る、その境地に達する人など居るでしょうか?...勿論私には出来ません!
少しく、自分の現実に照らしてみたら分かることじゃありませんか?
ラマナの話というのも、かなり大雑把な感じを受けるのですが、一方では真我の実現はけっして達成したりするものではない、と言ったり、又この言葉は、修行者に努力することを喚起しているように受け取れますが、一方では、真我に目覚めるには何らの努力を必要としない、と述べていたりもするのです。
だからといって、何もしないでそういうことが”起こる”(私はそれが出来る、というよりはそうなるものと理解しています)ことは、当たり前ですが無いでしょう。
思い、為そうとする自分から、自己を超えたものに明け渡すことは出来ない!...しかし、そう意識することは可能なのです。というか、我々が出来ることというのは、それしか無いのではないか?
いや、私は意識することが出来る...これ自体も本当には...
いつも言うように、意識することは能動的に思考を働かしたり、念を強めることとは違います。
取っ掛かりとして、そのように能動的に意志するということはあります。
しかし、そこに意志想念を超えて、他動的に、あるいは自動的にそのように意識的にさせるものを感じたなら...これが肝、アクメなんだ!
思い、意志想念を超えて、それ以前からその根底にあってハタラクものが、意識というものなのであり、いつも書いてて、自然とそうなるように、意識することというのは、”意識される”ことと一つのものなのです。
そこでは、出来る、出来ないということは問題ではありません。純粋意識の状態になる必要もありません(言葉の言い回しに留意を!)。やって出来る人など居ないだろうけど...
これは、少しく考えてみたら分かることでしょ!、明け渡し、全託の境地に自らなれる人など誰も居ないのですよ!
では、その真我実現に立ちはだかる、自我というものはどういうものなのか?、それは正に、”自分は明け渡しが出来る、達成出来る”という思いの中に示されるのではないでしょうか?
自然に”意識的な状態”になるには、やはり相応の意志的な努力も必要でしょう。それは、常に意識することを心掛けることかもしれません。
しかし、それは常にその裏側では、”意識されること”と切り離されてはいないのです!...
コメント
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