精神的な道には、人それぞれの目的というものがあります。
大体その先に見据えられていることは、悟りを得るとか、真理の究明とか...その手段として信仰を深めるとか、相応の修行に携わったりする訳ですね。
しかし、長いことし続けている内に、マンネリ化して、その道が深まっているのかどうか分からなくなって来たりするものです。
要するに、信仰のための信仰、修行のための修行に明け暮れるようになってしまうのです。
これは、意識的になっていないということを端的に表していると言えるでしょう。
意識が散漫になっている、集中されていない...いや集中するのが難しいからそうなってしまうのか?
私には自分の意念によって意識を集中することなど出来ません。最初からサジを投げざるを得ない...だってそういうことには意識が向きませんもの!(は?!)
意識を自分で集中するのでなく、意識が自ずと集まるものに意識が向けられるのです。意識の中心に自然に集まってくる...これでマンネリ化などする訳ありません。
これは神的なものを意識しているということです。意識がある中心に向けられるとは、そのように惹かれてやまないものがある、と言い換えることも出来ます。
つまり“神と共にある“とはそういうことなのです。
いや、精神的な道の目的として、神と一つになることを掲げている向きもあるでしょう?
私はねえ、もう達しちゃったのです!...いや、これはそういうことを言ってるんではなくて!...私がそうなったかどうかなど知らん!...神との一体化ということに意識が向けられているのは確かなことではあります。では、その神に思いを向けるとかいうのは、そのための手段なのか?
いやあ、それはどうかな?...少なくとも、その手段としての信仰だとか修行というものはあまり意識されてません。
自ずと催してくるものに任せるということは、こちら側の目的とか手段とかを意識する必要が無いということなのです。
このことは、安心立命、悟り、真理の究明...そういうものとも関わることなのかもしれません。
だけどそれらのことは、この“神と共にあること”から外れたら、そもそもの目的意識を失うことになるでしょう!
何故ならば、それから離れてそういうものはあり得ないだろうから!...
例えば、悟るとは思考を無くして空になることを考えたりします。それだけだったら、そんなのただの腑抜けになるってだけのことでしょう。
真理の究明?...観念世界に遊離した真理など何になるか?
このものを抜きにしたら、すべて意識の中心から浮いてしまうのです!...浮いてしまうかマンネリ化してしまう!
悟りや真理を求めている者は、誰しもが安心、幸福というものを求めているのでしょう。これは、どっかで意識付けられているはずです。
ところが、それをもたらすもの、根源となるものについては案外意識付けられてないようなのです。
いや、その目的を目指すことを思い立った時には、意識が向けられていたのではないか?
そこに安らぎがあるということが心の内奥に過っていたはずです。
そして、そこから手段に携わる段階で、その原初的意識から為そうとする思いに取り込まれ、変質してしまう際が生まれるのではないでしょうか?
いつもシツコク言っている“意識的になる”とは、だから神的なものに意識を向けるということなのです。
これは、具体的手段としては、祈ること、形を超えた瞑想に携わることを挙げてもいいでしょう。
しかしながら、形を超えているってことは、手段や目的を超えているってことでもあります。
何しろ、あちらの主導に任せるということなのだから!...
大体その先に見据えられていることは、悟りを得るとか、真理の究明とか...その手段として信仰を深めるとか、相応の修行に携わったりする訳ですね。
しかし、長いことし続けている内に、マンネリ化して、その道が深まっているのかどうか分からなくなって来たりするものです。
要するに、信仰のための信仰、修行のための修行に明け暮れるようになってしまうのです。
これは、意識的になっていないということを端的に表していると言えるでしょう。
意識が散漫になっている、集中されていない...いや集中するのが難しいからそうなってしまうのか?
私には自分の意念によって意識を集中することなど出来ません。最初からサジを投げざるを得ない...だってそういうことには意識が向きませんもの!(は?!)
意識を自分で集中するのでなく、意識が自ずと集まるものに意識が向けられるのです。意識の中心に自然に集まってくる...これでマンネリ化などする訳ありません。
これは神的なものを意識しているということです。意識がある中心に向けられるとは、そのように惹かれてやまないものがある、と言い換えることも出来ます。
つまり“神と共にある“とはそういうことなのです。
いや、精神的な道の目的として、神と一つになることを掲げている向きもあるでしょう?
私はねえ、もう達しちゃったのです!...いや、これはそういうことを言ってるんではなくて!...私がそうなったかどうかなど知らん!...神との一体化ということに意識が向けられているのは確かなことではあります。では、その神に思いを向けるとかいうのは、そのための手段なのか?
いやあ、それはどうかな?...少なくとも、その手段としての信仰だとか修行というものはあまり意識されてません。
自ずと催してくるものに任せるということは、こちら側の目的とか手段とかを意識する必要が無いということなのです。
このことは、安心立命、悟り、真理の究明...そういうものとも関わることなのかもしれません。
だけどそれらのことは、この“神と共にあること”から外れたら、そもそもの目的意識を失うことになるでしょう!
何故ならば、それから離れてそういうものはあり得ないだろうから!...
例えば、悟るとは思考を無くして空になることを考えたりします。それだけだったら、そんなのただの腑抜けになるってだけのことでしょう。
真理の究明?...観念世界に遊離した真理など何になるか?
このものを抜きにしたら、すべて意識の中心から浮いてしまうのです!...浮いてしまうかマンネリ化してしまう!
悟りや真理を求めている者は、誰しもが安心、幸福というものを求めているのでしょう。これは、どっかで意識付けられているはずです。
ところが、それをもたらすもの、根源となるものについては案外意識付けられてないようなのです。
いや、その目的を目指すことを思い立った時には、意識が向けられていたのではないか?
そこに安らぎがあるということが心の内奥に過っていたはずです。
そして、そこから手段に携わる段階で、その原初的意識から為そうとする思いに取り込まれ、変質してしまう際が生まれるのではないでしょうか?
いつもシツコク言っている“意識的になる”とは、だから神的なものに意識を向けるということなのです。
これは、具体的手段としては、祈ること、形を超えた瞑想に携わることを挙げてもいいでしょう。
しかしながら、形を超えているってことは、手段や目的を超えているってことでもあります。
何しろ、あちらの主導に任せるということなのだから!...