現臨という言葉は、何度か書いているように、主としてキリスト教で使われている、神、キリスト、聖霊の現臨などと言い表しているものから借りているのです。
特に聖霊というのは、その具体的なハタラキと結び付くもので、神、キリストの臨在感というものは、それを通して伝わるものと言えるのです。
そして、こういうものは、そこで強調されるものであれ、キリスト教に限定されるものではないのです。
宗教、スピ、哲学、あらゆる精神的な道に通底する、その生命に関わるものと言っても過言ではありません。
昨日は、夢の中でインド、東洋的?な瞑想と関わって、何かの非人格的?な波動エネルギーみたいなものに感応してしまったようなのですが、目覚めてもそれが続いていたんだから、もはや夢じゃないですよ!
同じようなことが、夢の中に手島郁郎先生が出て来て、按手を通して、聖霊を受けたこと、大調和協会の命位様と交流して、”おハタラキ”を受けたことなどでありました。
これは、眠り、目覚めの時というのは、思考マインドから離れ、余計な観念から自由なので、特にそう感じられるのですが、あの”ジンジン”と、思いを超えた力により私の全心身に満たされ、浸透してゆくものには何の違いも無く、一つのものに感じられるものなのです。
あれは、非人格なエネルギーなのか、聖霊というものは人格なハタラキなのか?、ということはどとっちとも感じられるものであれ、そういうことは、所詮理屈ごとのようにしか感じられません。
その生命、臨在に与るかどうかが肝心なことなのに、考えごとにしてたら起きてても、眠りに陥りますよ!
私は、これまで立場の異なる何人かの教師と出会い、その教えに接して、共感、共鳴することが出来ました。
これは、あまり自覚してこなかったのですが、それはほとんどの場合、現臨感と共にあったということが言えるのです。いや実際、それ無くしてどうして共鳴などということが起きるのであろうか?...
各々の相異というものは感じるのは自然なことです。そうであってもいい...
しかし、その思いを超えたハタラキにあって、一つに感じられることも又極めて自然なことなのです。
通常考えられていることは、信じる対象として神があり、従ってゆく教えやメソッドなどがある、とそれらは自己とは別のものとして捉えられているものですが、現臨にあるということは、自他の相異を超えている状態を言い表しているのです。
現臨にあって、超越的な神は信じる対象のままでは無く、自己実存と切り離されることはありません。
宗教、スピ界で盛んに取り沙汰される、本源的に一なるものの消息は、現臨にあって、抽象的に思い描いたものでなく、具体的に実感されるものとなるのでしょう!...
特に聖霊というのは、その具体的なハタラキと結び付くもので、神、キリストの臨在感というものは、それを通して伝わるものと言えるのです。
そして、こういうものは、そこで強調されるものであれ、キリスト教に限定されるものではないのです。
宗教、スピ、哲学、あらゆる精神的な道に通底する、その生命に関わるものと言っても過言ではありません。
昨日は、夢の中でインド、東洋的?な瞑想と関わって、何かの非人格的?な波動エネルギーみたいなものに感応してしまったようなのですが、目覚めてもそれが続いていたんだから、もはや夢じゃないですよ!
同じようなことが、夢の中に手島郁郎先生が出て来て、按手を通して、聖霊を受けたこと、大調和協会の命位様と交流して、”おハタラキ”を受けたことなどでありました。
これは、眠り、目覚めの時というのは、思考マインドから離れ、余計な観念から自由なので、特にそう感じられるのですが、あの”ジンジン”と、思いを超えた力により私の全心身に満たされ、浸透してゆくものには何の違いも無く、一つのものに感じられるものなのです。
あれは、非人格なエネルギーなのか、聖霊というものは人格なハタラキなのか?、ということはどとっちとも感じられるものであれ、そういうことは、所詮理屈ごとのようにしか感じられません。
その生命、臨在に与るかどうかが肝心なことなのに、考えごとにしてたら起きてても、眠りに陥りますよ!
私は、これまで立場の異なる何人かの教師と出会い、その教えに接して、共感、共鳴することが出来ました。
これは、あまり自覚してこなかったのですが、それはほとんどの場合、現臨感と共にあったということが言えるのです。いや実際、それ無くしてどうして共鳴などということが起きるのであろうか?...
各々の相異というものは感じるのは自然なことです。そうであってもいい...
しかし、その思いを超えたハタラキにあって、一つに感じられることも又極めて自然なことなのです。
通常考えられていることは、信じる対象として神があり、従ってゆく教えやメソッドなどがある、とそれらは自己とは別のものとして捉えられているものですが、現臨にあるということは、自他の相異を超えている状態を言い表しているのです。
現臨にあって、超越的な神は信じる対象のままでは無く、自己実存と切り離されることはありません。
宗教、スピ界で盛んに取り沙汰される、本源的に一なるものの消息は、現臨にあって、抽象的に思い描いたものでなく、具体的に実感されるものとなるのでしょう!...