人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現実を受け入れるということ

2023-10-04 09:56:51 | 意識、照明
私はこれまで”現実を受け入れること”が如何に重要なことかについて、何度か言い表してきました。
これはしかし、例えば突然不幸な事態に見舞われて、そのことを受け入れる、というようなこととは直接関わるものではありません。
ツラいことは、どうしても受け入れることなど出来ませんものね?
無理に受け入れる必要はない。...私は自分にも出来ないようなことは言いません。
”いや、出来るも何も掴みようが無くて、何だか分からん!”、ということはあるかもしれませんが...ごもっとも。分からなくても、いや出来なくてもいいのです。私は現実を受け入れることなど出来ません!...は?!
出来ることは、受け入れようと、意識することです。
私はノイローゼのような精神的苦境に陥ったことがあります。
苦しくても、外には行きたがってたので、世に言う、”引きこもり”では無かったようですが、思いのがんじがらめの状態の苦しさは分かっているつもりです。
こんな状態の時、例えば”ネガティブなことを考えないで、明るいポジティブなことを考えるんだ!”、などという、アドバイスが如何に非現実的で、人の心に寄り添ったものでないかが知られるでしょう。
出来ないから、そういう現実を抱えているのですからね!
だけど、いつも頭の中を駆け巡り、又凝り固まっていることは、その現実に即したことじゃないですよ!
”こんなことになって人はどう思うだろう...いや、人がどう思うかということに囚われているから、こうなっているのだろう...何とかしなければ!、何とか出来ないからこうなっているのだ!”
しかし、今のこうなっている現実には、何かと言いたがる人間は居ません!、何とかしなければ、やらねば!、しかし出来ない...出来るであろう自分を思い描いて、やろうとする思いにかられるだけなのです。
出来なければ、出来ないでしょうがないではないか?
この場合、現実を受け入れるとは、このまんまの現実を受け入れるということです。現実に居ないどっかの誰かの声もなく、現実に出来ない自分のことでない、今の自分自身の現実のことです。
受けいれねばならないのでなくて、受け入れられないまんま、を!
私は何度も経験しているのです。その瞬間、思いのがんじがらめ状態から解放されるのを!
私はそうとは知らずに、そう...”思いを超えてハタラクあるもの”を受け入れていたのです。
否、苦境にある私自らはそうなりません。そうなさしめるものを受け入れていたのです。
否々、受け入れようとしただけなのです(いつもいつも言葉の言い回しに苦労します)。
それだけで、思いで密閉状態に隙間が生じ、そこからよみがえりの風が吹き込むようにも、あるいは光が差し込むようにも思いが溶かされて行くのを覚えたのです。
そこから先は、再び思いの閉塞状態に戻るかもしれないし、解放されたままかもしれません。私の場合(最後は30数年前)それをほとんど知ることもなく、意識もされてませんでしので、今のようには行きませんでしたが...
だけど、その思いを超えてなさしめるものに意識を向けることは、じっつに大きいことですよ!...これが何のこっちゃワカラン向きには、今の自分の現実を受け入れようと思い立ったらいいのです。
何しろ出来る、出来ないの問題でないから大きいのです!...何にも出来ない私にとっては!(やって出来ると思っている人間には絶対に分かるまい!)
だからだから、これは聞き飽きた言葉かもしれないが...

”あなたは一人じゃない!”...



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