度々言っているように、私が精神的な道を歩むようになり、やがて精神的覚醒というか、宗教的回心体験に関心を持つようになりましたが、それは主に手島郁郎、小池辰雄両先生を通して、キリスト教に聖霊体験というものがあることを知り、俄然具体的に引きつけられるようになったのです。
それは、人生が一変するような素晴らしい体験に違いない!、ということは思えるのですが、しかし、それにはイエス.キリストを信じ、受け入れてクリスチャンにならないとならないのだろうか?...と、どうもその“イエスを信じる信仰“というものがつまづきになったのでした。
それ以前に、宗教信仰で苦い経験をしたせいか、自分の心情を容易く宗教観念にゆだねてしまうことに抵抗を感じ、長いことそのように葛藤を払拭することが出来なかった訳です。
これは、両先生の教理を信じることから自由な在り方であってさえもそうだったということなのです。
私は生来いい加減な人間だけど、いい加減な信仰など持ちたくない!...そんな信仰などでどうしてパウロの如く、“もはや私が生きるのではない、キリストがわが内に生きるのである!“、というキリストと一如の関係になれようか?...
私は、その頃(昭和50年代前半)はまだ自覚的ではなかったでしたが、どこかでそのように、キリストを対象にして信じるのではなく、本当の自分自身と切り離されないという在り方を求めていたようなのでした。
つまり、キリストとは真我である、そうでなければ一体化にはならないではないか?
しかし、こういうことも、それが破れ、超えられなければ、そう思っている私の一種の観念信仰に過ぎないと云わねばならないでしょう?
だから、キリストを受け入れて聖霊に自我が砕かれなければならない!...しかし!
“ああ、もうメンドクサ!“
これは、平成15年フレンド会(クエーカー)の集会での聖書講話で、“ナザレのイエスを通して生きて働いたキリストは、我々一人一人にもそのように働くのである、キリストはイエスだけに限定されるものではない!“、という意味の言葉に激しく揺さぶられた(神の手に捉えられた~聖霊体験?)ことも一つの契機となり(それでクエーカーになった訳では無いですが)、徐々に、自然にその自分自身、真我と切り離されないキリストを受け入れるようになったのです。
私は、真我なるキリストによってかく砕かれた、と言ってもいいでしょう。
今や、キリスト論だとか福音がどうとか、他人行儀なことなど言っておれません!
これは、自分の信仰、信念のことじゃないのですから!
キリストと呼ばれる存在は、とにかく一コの私を超えた、“すべてなる私の主なるもの“ではないか!...特定の信仰の事態じゃないのだから、聖書もキリスト教も超えたものとならざるを得ないのです。
左コ右ベンなどしておれようか!、こんな自由なことは無いじゃありませんか!
我が内に生きたもう、我が主キリスト!
いよいよ、私は神、キリストと一つにされることを身に覚えずにおれません!...
それは、人生が一変するような素晴らしい体験に違いない!、ということは思えるのですが、しかし、それにはイエス.キリストを信じ、受け入れてクリスチャンにならないとならないのだろうか?...と、どうもその“イエスを信じる信仰“というものがつまづきになったのでした。
それ以前に、宗教信仰で苦い経験をしたせいか、自分の心情を容易く宗教観念にゆだねてしまうことに抵抗を感じ、長いことそのように葛藤を払拭することが出来なかった訳です。
これは、両先生の教理を信じることから自由な在り方であってさえもそうだったということなのです。
私は生来いい加減な人間だけど、いい加減な信仰など持ちたくない!...そんな信仰などでどうしてパウロの如く、“もはや私が生きるのではない、キリストがわが内に生きるのである!“、というキリストと一如の関係になれようか?...
私は、その頃(昭和50年代前半)はまだ自覚的ではなかったでしたが、どこかでそのように、キリストを対象にして信じるのではなく、本当の自分自身と切り離されないという在り方を求めていたようなのでした。
つまり、キリストとは真我である、そうでなければ一体化にはならないではないか?
しかし、こういうことも、それが破れ、超えられなければ、そう思っている私の一種の観念信仰に過ぎないと云わねばならないでしょう?
だから、キリストを受け入れて聖霊に自我が砕かれなければならない!...しかし!
“ああ、もうメンドクサ!“
これは、平成15年フレンド会(クエーカー)の集会での聖書講話で、“ナザレのイエスを通して生きて働いたキリストは、我々一人一人にもそのように働くのである、キリストはイエスだけに限定されるものではない!“、という意味の言葉に激しく揺さぶられた(神の手に捉えられた~聖霊体験?)ことも一つの契機となり(それでクエーカーになった訳では無いですが)、徐々に、自然にその自分自身、真我と切り離されないキリストを受け入れるようになったのです。
私は、真我なるキリストによってかく砕かれた、と言ってもいいでしょう。
今や、キリスト論だとか福音がどうとか、他人行儀なことなど言っておれません!
これは、自分の信仰、信念のことじゃないのですから!
キリストと呼ばれる存在は、とにかく一コの私を超えた、“すべてなる私の主なるもの“ではないか!...特定の信仰の事態じゃないのだから、聖書もキリスト教も超えたものとならざるを得ないのです。
左コ右ベンなどしておれようか!、こんな自由なことは無いじゃありませんか!
我が内に生きたもう、我が主キリスト!
いよいよ、私は神、キリストと一つにされることを身に覚えずにおれません!...