これは幾度となく書いていることですが、昭和55年の春、私は高砂市の大調和協会で命位様と相対しました。
命位様は、私のたどたどしい言葉を発したことに、ハタッと何かを感じたらしく、私の手を強く握り、「私の目をしっかり見て!」と促し、このようなことを言われたのでした。
「あなたは、天地と真っすぐに一つにならないと絶対に承知しない人なんです。どうぞ、どこまでもどこまでもあなたが本当に得心するまでお行きなさい!、そのことをお祈りしていますよ!」と。...
思い返せば確かに私は、上辺の何かに流されやすい、迎合しやすい性質に相反して、そういう人間であると感じざるを得ません。
詩人の茨木のり子さんじゃないけど、“デキアイの宗教にも思想にも寄りかかりたくない!“、という気持ちをどっかに強く感じて生きて来たのです。
それを感じているのは、表層で思ったり、為そうとする自分ではないのですね。意固地な自分の信念なんかでそうなっているんじゃない!
私は、生まれて初めて、私の知らない私そのものを目の当たりにしたように感じました。これは、強烈な実存体験だったと言えます。
こういうことがあった直前、私はベルジャーエフの本を読んで、生まれて初めて私の内奥の暗部に光が差し込んだ、というような、これもある種の実存体験がありました。
つまり私は、この時期、初めての実存体験に別の有り様で、立て続けに与ったということです。
実存という...私は“流行的実存主義(?)“のサルトルの本など読んだことなどなく、実存の意味など分からなかったのですが...いや、実存の意味が頭で分かったからとて何になるだろうか?
それは、正に実存体験という、本来名付けられないような事態を通して直接的に、全人格的に分からされるものでなくて何であろう!
それは、最近この場で繰り返し表している、“一コの自分を超えた、全的自己との邂逅“という他ないでしょう。
先の命位様は、こうした私の、何かが噴出して来そうな意識状態に感応されたのに違いありません。
これはですね、数十年前の回想ごとで無くて、実に今日の今のことなんですよ!
あの時は、とにかく人生経験も浅く、自覚的では無かったのです。
そのようなことが突発的に思いを超えて、顕わになることもあるけれど、表層の思いに流されたりすることを繰り返していたのです。
それは、その数年後のあの、爆発的覚醒体験に与った時でも同じなのです。すぐ元の木阿弥になってしまう…。
しかし、私はずっと、すべての私なる主と一つにならないと絶対に承知しない人間だったのです。いや、主の方が私をほっとかないでしょう!
いよいよ私は主に迫られ、取られて行くのをヒシヒシと感じずにおれません。
言葉だけに触れていても何故そういうことにこうして懸命になっているのか、多分伝わらないでしょう?
あの愛、調和、平安、リアリティが一つになった至福は、他の何ものにも代えることなど出来ないからですよ!
何でデキアイの宗教、思想などに安易に追従などしてられようか!
神と自己が一つになるという運命からは、何人も逃れることは出来ず、受け入れるしかないのです!...
命位様は、私のたどたどしい言葉を発したことに、ハタッと何かを感じたらしく、私の手を強く握り、「私の目をしっかり見て!」と促し、このようなことを言われたのでした。
「あなたは、天地と真っすぐに一つにならないと絶対に承知しない人なんです。どうぞ、どこまでもどこまでもあなたが本当に得心するまでお行きなさい!、そのことをお祈りしていますよ!」と。...
思い返せば確かに私は、上辺の何かに流されやすい、迎合しやすい性質に相反して、そういう人間であると感じざるを得ません。
詩人の茨木のり子さんじゃないけど、“デキアイの宗教にも思想にも寄りかかりたくない!“、という気持ちをどっかに強く感じて生きて来たのです。
それを感じているのは、表層で思ったり、為そうとする自分ではないのですね。意固地な自分の信念なんかでそうなっているんじゃない!
私は、生まれて初めて、私の知らない私そのものを目の当たりにしたように感じました。これは、強烈な実存体験だったと言えます。
こういうことがあった直前、私はベルジャーエフの本を読んで、生まれて初めて私の内奥の暗部に光が差し込んだ、というような、これもある種の実存体験がありました。
つまり私は、この時期、初めての実存体験に別の有り様で、立て続けに与ったということです。
実存という...私は“流行的実存主義(?)“のサルトルの本など読んだことなどなく、実存の意味など分からなかったのですが...いや、実存の意味が頭で分かったからとて何になるだろうか?
それは、正に実存体験という、本来名付けられないような事態を通して直接的に、全人格的に分からされるものでなくて何であろう!
それは、最近この場で繰り返し表している、“一コの自分を超えた、全的自己との邂逅“という他ないでしょう。
先の命位様は、こうした私の、何かが噴出して来そうな意識状態に感応されたのに違いありません。
これはですね、数十年前の回想ごとで無くて、実に今日の今のことなんですよ!
あの時は、とにかく人生経験も浅く、自覚的では無かったのです。
そのようなことが突発的に思いを超えて、顕わになることもあるけれど、表層の思いに流されたりすることを繰り返していたのです。
それは、その数年後のあの、爆発的覚醒体験に与った時でも同じなのです。すぐ元の木阿弥になってしまう…。
しかし、私はずっと、すべての私なる主と一つにならないと絶対に承知しない人間だったのです。いや、主の方が私をほっとかないでしょう!
いよいよ私は主に迫られ、取られて行くのをヒシヒシと感じずにおれません。
言葉だけに触れていても何故そういうことにこうして懸命になっているのか、多分伝わらないでしょう?
あの愛、調和、平安、リアリティが一つになった至福は、他の何ものにも代えることなど出来ないからですよ!
何でデキアイの宗教、思想などに安易に追従などしてられようか!
神と自己が一つになるという運命からは、何人も逃れることは出来ず、受け入れるしかないのです!...