人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

命がけの道

2014-12-19 19:12:51 | 求道、探究
人の生はそれぞれ、道も歩みもそれぞれ、誰一人同じではありません。
誰一人貴方の代わりを生きてはくれません。
精神的な道にしても宗教と関わりながら歩む人も居れば、全く関わりを持たない人も居ます。
これはもう縁によると言う他有りませんが、もしその道が自己実現とか本心を開くというところに向けられるのであれば、どの道一人一人の内側へとシフトして行かざるを得ないでしょう。
こういうところに向かわない宗教というのは、そもそも存在理由が無いという気もします。
これは宗教という形を持たなくとも、誰か特定のスピ系の教師的人物を信奉したりする生き方でも同じですが、ともすると信じるという方に意識が行ってしまいがちで、例えば思っていたような成果が得られなかったら、その人物を非難するような人も出てきたりします。
何かよからぬことを被ったというのなら話は分かりますが…
要はどうしても一歩踏み出さねばならぬ時、人生の一大転機の機会が巡ってきた時に、それにコミットできるかどうか、それは全くもって他の誰でも無い
貴方に委ねられている、という事なんです!
「ただ自分はとりあえずその宗教と、その教えを信じていてつながっている…だから救われているんだ」と全く安易な事言ってる向きもありますが、本気でそんな事信じてるんでしょうかね?…
それだったら何時まで経ってもその道の入り口にも立てず、同じところを往ったり来たりしてるだけです。
そういう人が何時までもそうしてられるのはただ気休めだけです。
本当に自分の内側にシフトし、恩寵の光に委ねるというのは命がけのことなのです!
そんなに難行苦行しなきゃならないのですかって?
いやいや、そんなのは何もないです。
一歩踏み出す、コミットすると言ったって取り立てて何かしなきゃならないってもんじゃないです。
その内実は我々の行為、決心というものに有るのではありません。
全ては恩寵の光によりもたらされるものです。
そして「こちらに意識を向けてごらん!」という声なき声の促しに委ねるだけです。
この一瞬に我々の人生の全て、過去も現在も未来も全てがかかっているのです。
命がけには変わりないでしょう。
五井先生はよくこう言ってました、「ああだ、こうだと中途半端な気持ちが一番ダメだ!」と…
小池先生は又よく言ってました、「いい加減なら、おやめなさい!」と…
私はその道にコミットすることなく、さっさと引っ込んだクチなので、エラそうな事とても言えないですけど、どの道であれ一端コミットしたのなら、右顧左眄しないでその道に決定するという事を言われているのでしょう。
もし、そこから本心の道が開け、恩寵の光がもたらされる契機が生まれるのなら意味のあることです。
何にしても命がけな事には変わりありません。
ただその道に縁の無い部外者がそう言う言葉を聞いたら、「この道しか無い!」みたいなこと言ってて狂信的に聞こえるかも分かりません。
手の平を返したような事言いますが、もしその道を歩み続けてても、物足りない、一向にラチが開かないと思ったらグチャグチャ言ってないでさっさと道を変えるべきです。
「いくら変えてもこの道以外には無いのだ!」と言ってる人が居れば、それは本当に狂信的な人です。
道は人の数だけ存在してますから…
いっそのこと、依りかかるような道は皆放棄しちゃってもいいでしょう、それこそダイレクトに自分自身に繋がれる道が開けるかも知れないですから。
そう、実は色々な道が有るようで、道は一つしかないのです。
わが宗の人ならみんな知ってます。
全てで一なる道は我々の内に有る…。
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