私が“照明”と呼んでいるものは、現臨感覚と一つのもので、当然その感覚が芽生えた時にもそうしたものを受けていたのです。ただ、今のようにその自覚はあまり無かったのですが...
現臨と一つのものですが、こちらはより”受ける“、という感じが強いのです。
受ける、受け入れるだけ、と言ってもいいくらいです。照らされる、映し出されるままを受け入れるだけ!
現臨というものと同じく、照明だなんて、何か私が特殊なことを言ってるみたいですけど、あらゆる宗教的伝統においても、これに触れていないものは皆無と言っていいでしょう。
又、本当の意味での哲学も生まれ出るはずの無いものなのです。ことに実存哲学とか!...
実存感覚というものが、そもどこから来るのか?...この自己を超えて照らし出す、あるものによってしか映し出されないのではないでしょうか?!
そうです!...“超越的なものと実存的なものは一つ”...それはこの”照明“にあって明かされるものに他なりません!
いつも言うように、それは関わりがあるものながらも、混同されがちになる、自分で自分を観察することとは違います。”自分を客観的に見つめる”、とか言ったって、多分それは言葉の上でしか出来ないでしょう?
いや、だからそれは、知らずに無意識でやらされていることなのです。知らずに受けているものなんですってば!...んで、ポン!と、考えている自分の外に出ちゃったとか!...あるあるう?!
受ける、受け入れるだけ!...それだけ?って、あーた!、本当に何でも受け入れることが出来ますか?...ありのままの自分を受け入れられますか?...”私は、どうにも悪いヤツで、ダメで!”、とか、それの裏返しの“オレは出来る!、人より上だ、進んでいるのだ!”とか色んな色で飾り、価値判断を加えたりしているのではないでしょうか?
ここで言ってることは、例えば自分の悪い、ダメな部分が映し出されたから、それを直し、改めていきましょう!、ということでは無いのです。(そういうものは価値が無いと言っている訳ではありません)
そういう思いの強い人は、ありのままの自分を受け入れることは出来ないでしょう。
じゃあ、どうすればいいか?...そういう自分に何かとウルサイ自分を受け入れるだけですよ!
受け入れたら、変わろうとしなくても変わったりするのです!
受け入れさせるものにあって!、すべての私を映し出す光にあって!
我々は、毎日太陽の光を受けているように、この超越的な光を受けていることに気が付いていないだけなのです。少しく意識的になってみるだけで、見えないもう一つの太陽の恩恵に与れるでしょう。
要するに、それが自分を超えたものに与る契機なのです。
自分を受け入れることは、自分を超えたものを受け入れることと一つなのです!(これが肝心!)
思い返せば、40数年前、この照明を受け入れることにもっと意識を向けていれば...なんて思う間もなく1年半が経ち、いつしかその感覚も自然消滅してしまったのでした...。
現臨と一つのものですが、こちらはより”受ける“、という感じが強いのです。
受ける、受け入れるだけ、と言ってもいいくらいです。照らされる、映し出されるままを受け入れるだけ!
現臨というものと同じく、照明だなんて、何か私が特殊なことを言ってるみたいですけど、あらゆる宗教的伝統においても、これに触れていないものは皆無と言っていいでしょう。
又、本当の意味での哲学も生まれ出るはずの無いものなのです。ことに実存哲学とか!...
実存感覚というものが、そもどこから来るのか?...この自己を超えて照らし出す、あるものによってしか映し出されないのではないでしょうか?!
そうです!...“超越的なものと実存的なものは一つ”...それはこの”照明“にあって明かされるものに他なりません!
いつも言うように、それは関わりがあるものながらも、混同されがちになる、自分で自分を観察することとは違います。”自分を客観的に見つめる”、とか言ったって、多分それは言葉の上でしか出来ないでしょう?
いや、だからそれは、知らずに無意識でやらされていることなのです。知らずに受けているものなんですってば!...んで、ポン!と、考えている自分の外に出ちゃったとか!...あるあるう?!
受ける、受け入れるだけ!...それだけ?って、あーた!、本当に何でも受け入れることが出来ますか?...ありのままの自分を受け入れられますか?...”私は、どうにも悪いヤツで、ダメで!”、とか、それの裏返しの“オレは出来る!、人より上だ、進んでいるのだ!”とか色んな色で飾り、価値判断を加えたりしているのではないでしょうか?
ここで言ってることは、例えば自分の悪い、ダメな部分が映し出されたから、それを直し、改めていきましょう!、ということでは無いのです。(そういうものは価値が無いと言っている訳ではありません)
そういう思いの強い人は、ありのままの自分を受け入れることは出来ないでしょう。
じゃあ、どうすればいいか?...そういう自分に何かとウルサイ自分を受け入れるだけですよ!
受け入れたら、変わろうとしなくても変わったりするのです!
受け入れさせるものにあって!、すべての私を映し出す光にあって!
我々は、毎日太陽の光を受けているように、この超越的な光を受けていることに気が付いていないだけなのです。少しく意識的になってみるだけで、見えないもう一つの太陽の恩恵に与れるでしょう。
要するに、それが自分を超えたものに与る契機なのです。
自分を受け入れることは、自分を超えたものを受け入れることと一つなのです!(これが肝心!)
思い返せば、40数年前、この照明を受け入れることにもっと意識を向けていれば...なんて思う間もなく1年半が経ち、いつしかその感覚も自然消滅してしまったのでした...。
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