人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神を信じるとは?

2020-08-03 11:50:29 | 
私はいつもここで、"意識を向ければ、ぱっと..."何かにつながり、それが愛、平安をもたらすものであり、そういうことがいつしか恒常的になってきた、ということを書いているのです。
それで、いくら一人よがりの私でも、たまには読み手のことも意識して、"どうしたらそうなるのか?"、ってことも考えない訳ではないのです。
しかし、自分のことを考えてみて、"どうやってそうなったのか分からんなあ?"、ってことになって、結局一人よがりに落ち着いてしまう次第なのです。
いつも強調していることは、私が主導でやる何かによりそうなるのではなく、"そうさせる何か"によってそうなるということです。だから、"どうやって..."という線は一寸ズレてしまうと言わざるを得ないのです。
ということは、そうさせる何かを見い出す、感じるってことが肝心なのですよi(こういう言い方もなんかなあ...)
それを神、神的なものと言っているのは、あくまで私の場合です。そういうものに囚われる必要はありません。
とにかく各々にとって最愛のもの、惹かれてやまないもののことです。だから、そうなってしまうんだってばi
ただ、神というものを例にとったら、これからの話はとても手っ取り早いです。
宗教的、信仰的な人ならすぐ入って行けるでしょ? そういう人は神のことを思わない人は居ないでしょう?
だけど、そういう人が本当に神を愛しているかどうかは別です。それ以上に怖れている人も居るでしょう。
これは本当に不思議なことなんですが、あるいは私がそうなってたこともあるように、一方で神を愛してて、他方で怖れていて、分裂気味になってる人が一番多いのかもしれません。(これは精神面で全く健全なことじゃないです。宗教ってのは色んな意味で分裂が付き物なんでしょう)
こういう人はその教師なり、他人が言っていることが先入観になっているのです。その上、"信じなければならない"と吹き込まれるので余計に強固になってしまうのです。
神は愛なのか、おそるべきものなのか、そこは一切の先入観を排して、自分が直接神に向き合うという気概を持たなければダメです。
そうでない人は、自分は本当には神を信じてなどいない、ということを知るべきなのですi
"神は人知を超えていて、分からないものなのだから、そんなのは無理だ"、という声ももっともでしょう。
だけど、そもそもの話が、人知の限界を知らされているから神を求める、という気概が生まれるのではないですか?
自分の思いの壁にぶち当たったことの切実な人には分かることでしょう。思いを超えたものには、ゆだねるしかないということが...それは全く分裂の無い、極めて全一的な意識の有り様なのです。
神を信じるということは、ゆだねることと言っても過言ではないのです。
ゆだねた先に愛があるのか、おそろしいことが待っているのかは分かりません。ただこのゆだねに赴いてしまうことがある、ってことが重要なことなのです。
神は何かは分からない、いやそれは神か何かも分からないのが本当なのでしょう。ただ惹き付けてやまないものがあるのですi (何かに脅迫されるでなしに、おそろしいものに赴く何てことがあるでしょうか?)
一度意識がこういう風に動くことがあれば、自ずと信頼とか親しみが生まれるでしょう。すると、だんだん先入観に植え付けられている"怖れ"も薄らいでくるでしょう。
そして、この怖れというのは、不信につながっていることも分かるでしょう。それは神を遠ざけているものなのです。
人間世界のことを考えても、信じていながら、親しく、近しく感じてこなければオカシイじゃありませんか?
そしてそれは又、その神は自分自身のことにも重ねられているのです。
神を信じることは、自らを信じることと一つなのです。
私の場合、"どうしてそうなったか?"、と聞かれたら、"神を信じ、親しんできたから"、としか言いようがありません。
それは、理屈抜きに惹かれるものがあったからですよi
と、まあ又性懲りもなく書いている訳でして...そんなこと分かりきってるという人にも、分からんという人にも何かのヒントになればと思っている次第です。
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