人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神はいずこに?

2020-08-04 11:53:14 | 
"肺炎てーのは、暑さに弱いものなんだから夏になれば勝手に収まるさi...あんだけ世界中に蔓延したんだから、後は抗体とかも出来て一段落さi..."
いや、コロナってーのは、どうしてこう、私の希望的観測を裏切り続けるものなのでしょう。
これは神が人類に与えた試練なのか?、それとも神に背いた罰なのか?、いや、これこそ、そういう救いの神など存在しないことの証明なのか?
これのみならず、相次ぐ自然災害、紛争、テロの続発(このコロナ禍の間、比較的鳴りを潜めている感もあるが)。裁きか不在か...いずれにせよ神は、ちっとも我々の救済にはつながらんではないか?
"アタシャ、知らんi"
こういう理由で神を信じない、又その信仰から離れてしまう人も多いことでしょう。
しかし、こうした神の見方はすべて先入観に基づいている、"考えられている神"と言わねばなりません。
神=創造主であり、時に我々を救ったり、時に懲らしめたり、人の善悪の裁定を司っているのだ、と。
神は分からないものなのに、不思議とこういう刷り込みは根強いものがあるようです。
私がここで、多く神、神的なものとして言い表しているものも、実はそれが何であるか分からないものなので、当然創造主、万有の主宰者のことを言っている訳ではなく、それは思いを超えたもの、超えさせるもの、現存、実存在らしめるもの...即ち(聖霊、如来...呼び名は様々なれど)現臨のことを言っているのです。
前言と矛盾するかもしれませんが、私はそれを"救いの神"とみることを否定しません。実際に現臨にあって何度も救いを体験しているからです。
愛、平安、リアリティに与ること自体がそうなのです。勿論、そうなっている時、地獄の恐怖や魔神のごとき裁き、"おとがめ"のようなものを感じたことは一度もありません。
分からないものなのに、何でそういうことが言えるのか?...分からないのは、その目に見えるような実態のことであり、現臨、救いというのは、そういう実感が伴っているからです。
実態、実証を求める向きには、愛、平安というものは永久に分からないでしょう。
ワーズワースとかゲーテなどの詩人では、自然の営みに神の意志、現れを見る人たちも居ます。宗教学などでは自然神秘主義とか言うようですが...
私は詩心が無いのか、先の自然災害の例など、自然現象そのものを神的なものに見立てることはちと出来ません。
しかし、自然の中に神的なものが臨めば、そのように感じられるのです。これは日常、社会生活すべてについても言えることです。
そこで起こっている現象は同じで、何かの法則は動かないものだけど、感じ方が変わってしまったりするのです。
つまり神とは、それが直接私に臨むことにより、目の当たりにするもの、見たまま、思われたままのものを変容させるもの...私やあなたの神をおいて他には存在しないのではないでしょうか?
だから、神を否定するのはまだ早いi...人がそう言っている、先入観のバイアスのかかった神でなく、あなたの神に直接聞くべきなのですi
"あなたはどこにおられるのですか?"と。
すると..."お前が居るところだ!"と、声なき答えがジンジンしてくるではないかi
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 神を信じるとは? | トップ | 本当の安心 »

コメントを投稿

」カテゴリの最新記事