神という言葉は、一言で言い表せないことを表すのにとても便利です。
否、ホントは言い表すことなど不可能なのでしょう。思いを超えたものをどう言い表せるのか?
だから、神という言葉は一種のメタファー以上のものとはなり得ないものなのでしょう。
だからだから、その実体は捉えられないもの故、神に囚われるなんてことは、本来あり得ないでしょう?
然るに、それがかくも囚われに満ち、数多の混乱、相克を引き起こす要因になってしまうとは!
仏教などでは神という言葉は使いませんが、そうでなくとも使いたがらない人は多いようです。(とにかく、神という言葉は”垢にまみれている”と言える!)
囚われたくない、人間としての主体性を欠き、精神をそれ以外の何かに依存させてしまう、胡散臭い...理由はなんであれ、神という言葉を聞いただけで拒絶反応を示す人も見受けられます。
これは、神というもののその不可知なる本来性からかけ離れ、半解のまま捉え続けていることに依るのでしょう。
それが不可知の、分からない、捉えられないもの故に、我々の思念の囚われに、その周囲への感染に猛威を振い続ける...そうです!...それはあの思いを超えたものの消息を全く開示することは無いのです!
宗教的狂信者に代表されるように、彼らの語る神は、その観念、信念なりの投影であり、思いが凝って、あたかも実体を帯びた神の如くに脳内に鎮座し続ける(強固な実在信仰がある)、言わば”思凝神”に過ぎないのです。
故に狂信者ほど神に、精神的な目覚めに遠い者は居ないと言うのです。彼らはずっと睡眠状態に置かれているようなものだから!...
そして又、彼らは素のままの、ありのままの自分、自己実存に中々意識を向けることが出来ないようです。それを受け入れることは、彼らの信じるその思凝神のご意向に添わないと思っているからなのか?
その神は常に正しく、その信仰、信念から外れてはならないように命じているのだろうか?
宇宙の最高神の支配する世界はかくも狭く、自由の無い、普遍性からかけ離れた世界なのか?!...
こうなると、とても”私は正しい神を信じているのです!”などと言う気になりません!
私は神など信じちゃいません!...信じなくてもいい!
ありのままの自分を受け入れられない、信じられないと言うのなら!...しかし、それ自体、自分からは受け入れられないではないか?
思いの限界内の自分からは!...思いを超えたものを受け入れずには!...
神は実存と切り離すことは出来ない!...ここからズレたところに妄信、狂信がはびこるのです!
お分かりのように、実なる(実存的)神のことは、思凝神のことをそのままひっくり返せすことで示されると言えるのです。
然るに、信じる神の世界は、もう救いようの無い状態ではないか?
だから、救われないと本当に感じたなら、救いの道は開かれる...かもしれません?...
否、ホントは言い表すことなど不可能なのでしょう。思いを超えたものをどう言い表せるのか?
だから、神という言葉は一種のメタファー以上のものとはなり得ないものなのでしょう。
だからだから、その実体は捉えられないもの故、神に囚われるなんてことは、本来あり得ないでしょう?
然るに、それがかくも囚われに満ち、数多の混乱、相克を引き起こす要因になってしまうとは!
仏教などでは神という言葉は使いませんが、そうでなくとも使いたがらない人は多いようです。(とにかく、神という言葉は”垢にまみれている”と言える!)
囚われたくない、人間としての主体性を欠き、精神をそれ以外の何かに依存させてしまう、胡散臭い...理由はなんであれ、神という言葉を聞いただけで拒絶反応を示す人も見受けられます。
これは、神というもののその不可知なる本来性からかけ離れ、半解のまま捉え続けていることに依るのでしょう。
それが不可知の、分からない、捉えられないもの故に、我々の思念の囚われに、その周囲への感染に猛威を振い続ける...そうです!...それはあの思いを超えたものの消息を全く開示することは無いのです!
宗教的狂信者に代表されるように、彼らの語る神は、その観念、信念なりの投影であり、思いが凝って、あたかも実体を帯びた神の如くに脳内に鎮座し続ける(強固な実在信仰がある)、言わば”思凝神”に過ぎないのです。
故に狂信者ほど神に、精神的な目覚めに遠い者は居ないと言うのです。彼らはずっと睡眠状態に置かれているようなものだから!...
そして又、彼らは素のままの、ありのままの自分、自己実存に中々意識を向けることが出来ないようです。それを受け入れることは、彼らの信じるその思凝神のご意向に添わないと思っているからなのか?
その神は常に正しく、その信仰、信念から外れてはならないように命じているのだろうか?
宇宙の最高神の支配する世界はかくも狭く、自由の無い、普遍性からかけ離れた世界なのか?!...
こうなると、とても”私は正しい神を信じているのです!”などと言う気になりません!
私は神など信じちゃいません!...信じなくてもいい!
ありのままの自分を受け入れられない、信じられないと言うのなら!...しかし、それ自体、自分からは受け入れられないではないか?
思いの限界内の自分からは!...思いを超えたものを受け入れずには!...
神は実存と切り離すことは出来ない!...ここからズレたところに妄信、狂信がはびこるのです!
お分かりのように、実なる(実存的)神のことは、思凝神のことをそのままひっくり返せすことで示されると言えるのです。
然るに、信じる神の世界は、もう救いようの無い状態ではないか?
だから、救われないと本当に感じたなら、救いの道は開かれる...かもしれません?...
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