人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
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西田哲学の純粋経験

2023-02-02 10:10:40 | 人生の裏側の図書室
「自己自身を超えたものにおいて自己の生命をもつところに人間というものがある」
(西田幾多郎)

所謂名著、名著者などの、”これだけはおさえておかなくては!“という意図での読書を仮に“スタンダードな読書“とすれば、私にはほとんど縁がありません。
その時々の読みたい本を読んできたのです。
哲学というジャンルにはそういう表現は相応しくないと思われますが、我が国でもっとも高名な哲学者といえば、おそらく西田幾多郎先生でしょう。
私が初めて西田先生の本を読んだのは、ようやく5年くらい前でしたが、そう“名著“「善の研究」(岩波文庫他)なのでした。
私としたことが(?)、“どれどれどんな名著なんだ、あ~ん...“というノリで読んでみたのですが、哲学風のエッセイという印象で、予想してたより読むのに難渋した記憶も無かったし、あまり私の内部が揺さぶられることも無かったのです。
しかし...先日どうにか読み終えた先生のより本格的な「西田幾多郎哲学論集1」(岩波文庫)は、一定の精神的コンディションを保っていなければ、到底読み進むことは不可能なシロモノであり、ホントに理解出来たのかどうかは別として、何度か”揺さぶられた”のは確かなことでした。
哲学というのは、多く思弁的、知的概念を借りて表現されるものなので、それが如何にそれらを超えた深淵な領域を指向し、関わるものであっても、その思弁の限界内の理解に留まることもあれば、”知的直観”によって、その奥域に踏み入れることになることもあります。
しかし、例えば「超越的なるものが内在的となるというのは、場所が無となることである、有が無となることである」(同書)といった表現に対し、思弁によって分かったつもりになるようなことは、全くどうかしてると言う他ないでしょう。
西田哲学には、思いを超えたもの、超越したものが大前提になっているのですから...
かといって私は、”知的直観によらなければダメだ!”、なんてミもフタもないことを言うつもりもありません。
ただ、分かる、分からないは別として、そこに自分の思いを超えた何かに与るには、知性だけでなく、ある種の感性が必要だと思います。
いや、と言うか...この西田哲学というのは、実に後続の学者も多く、影響力があり、広く親しまれているものでありますが、ホントに理解されているのかどうかは全く知る由もありません。
いや、”私は、理解してますよ!”なんてしたり顔で言っている人間ほど何も分かっていないのではないか?
私が分かろうと、分かるまいと...”何かが私の内部に触れて、通っていった!”、という”純粋経験”に与るかどうか...無けりゃ、無いでどおってこたない!...それが哲学という物好きの学問てもんでしょう?
しかし、それにしても...どなたかが指摘されるとおり、知的直観により導入されるべきことを、どうしてかくも難渋な哲学用語を用いて、論理的展開によって表現されなければならないのでしょうか?...”相対的矛盾的自己分裂”に陥りはしないか?
まあ、そこを超えたところに、”絶対矛盾的自己同一”があるのでしょう?
何のこっちゃ?、...知らん!

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