先日、ある本を読んでいたらもう、驚いたのなんのi...何度も目がくぎ付けさせられてしまいましたi
「私たちの幸不幸を決定するものは、一面は境遇と見られ、一面は意識状態と見られるのであります。しかるに人は多くその境遇の方にのみ注意して、その性根(意識に根ざすもの)の方を忘れておるのであります」
「佛は我々の内にあるが中にはないのであります。佛は我の中にありという時には、我は佛より大きいものでなくてはなりません。...佛が我に内在するということは、我の内面にあるということであります。自覚の光に照らし出されて佛の中に現実の我を見出だす時、我々は佛の内在を感ずるのであります」
「超越するがゆえに内在し、内在するがゆえに超越する、それは常住真実の佛であります」
「人間の智には明らかに二種あって、一は知識といわれ、一は叡智といわれています。...真に己を知り、人間の理想を知り、自分のなすべきことに安んじて行ける叡智、それが智慧の光明であり、それはともすれば、何でも知っている学者にかくされ、何も知らない愚者に輝く光明であります」(金子大栄「帰依と行善」)
かくも、今の私の内面に響いているものを代弁されている方が居られたとはi...
実はこの本を読んだのはニ度目のことで、ちょうど六年前に読んだ時はさして印象に残ってなかったのです。
今の私だったら、これらの文章に触れて、絶対に看過などしてる訳がありません。この間に私の内面に著しい進境があったのでしょうか?...んなこた、多分無いと思いますよ。
金子大栄師は、清沢満之師の学統を継ぐ、真宗大谷派の宗教哲学者...と言われています。
私はかなり前、同じ門下の暁烏敏師の「更生の前後」という本を読んで感激したことがあったくらいで、同門の方のものは、ほとんど読んだことが無かったのです。
不明を恥じて言えば、あまり期待して読んで無かったのかもしれません。有り体に言えば真宗大谷派の御用学者というイメージで見ていたようなのです。
その後、いくつか同門の書物に触れ、そういうイメージはすっかり払拭され、どうしてどうして彼らは、我が国の宗教、哲学史の上に揺らぎない業績を残したということを感じ入るに至ったのです。ああいう人たちは、正にこの国においてしか生まれなかったと言っていいでしょう。
それはこの本からも感じられるように、その各々が、徹底的に自己に向き合い、よく追求、反省し、そこから導かれるものを表して行ったからでしょう。
少なくとも、私には上に紹介した言葉から真宗の何派、行としての称名念仏といったものさえ、超えたものを感じざるを得ません。
しかし、その一方で、真宗の伝統的教学や称名念仏に立ち返るという姿勢も見てとれるところもあるのです。
この辺りが、例えば禅における鈴木大拙師のような全く、その枠を超えたような生き方に比べて限界を感じてしまうところなのです。(これはその表向きの生き方、在り方のことであって、その内実的在り方のことを言っているのではありません)
どうしても彼らには、"真宗大谷派の..."という形容が付いてまわるようなのですが...やっぱり私には、"実存的光を追求し、それに照らし出されて生きる、一人の行学者"というものを感じ、共感してしまうことがどうしたってあるので(それが肝心i)、それでいいのでしょう。
先の理由でか、大拙師の本は何度も復刊され、大きな書店に行けば容易く手に入るのに、金子師のものは、過去のものになってしまったのか、ほとんどが絶版状態です。
しかし、私には忘れ難いものになったのは言うまでもありません。
「私たちの幸不幸を決定するものは、一面は境遇と見られ、一面は意識状態と見られるのであります。しかるに人は多くその境遇の方にのみ注意して、その性根(意識に根ざすもの)の方を忘れておるのであります」
「佛は我々の内にあるが中にはないのであります。佛は我の中にありという時には、我は佛より大きいものでなくてはなりません。...佛が我に内在するということは、我の内面にあるということであります。自覚の光に照らし出されて佛の中に現実の我を見出だす時、我々は佛の内在を感ずるのであります」
「超越するがゆえに内在し、内在するがゆえに超越する、それは常住真実の佛であります」
「人間の智には明らかに二種あって、一は知識といわれ、一は叡智といわれています。...真に己を知り、人間の理想を知り、自分のなすべきことに安んじて行ける叡智、それが智慧の光明であり、それはともすれば、何でも知っている学者にかくされ、何も知らない愚者に輝く光明であります」(金子大栄「帰依と行善」)
かくも、今の私の内面に響いているものを代弁されている方が居られたとはi...
実はこの本を読んだのはニ度目のことで、ちょうど六年前に読んだ時はさして印象に残ってなかったのです。
今の私だったら、これらの文章に触れて、絶対に看過などしてる訳がありません。この間に私の内面に著しい進境があったのでしょうか?...んなこた、多分無いと思いますよ。
金子大栄師は、清沢満之師の学統を継ぐ、真宗大谷派の宗教哲学者...と言われています。
私はかなり前、同じ門下の暁烏敏師の「更生の前後」という本を読んで感激したことがあったくらいで、同門の方のものは、ほとんど読んだことが無かったのです。
不明を恥じて言えば、あまり期待して読んで無かったのかもしれません。有り体に言えば真宗大谷派の御用学者というイメージで見ていたようなのです。
その後、いくつか同門の書物に触れ、そういうイメージはすっかり払拭され、どうしてどうして彼らは、我が国の宗教、哲学史の上に揺らぎない業績を残したということを感じ入るに至ったのです。ああいう人たちは、正にこの国においてしか生まれなかったと言っていいでしょう。
それはこの本からも感じられるように、その各々が、徹底的に自己に向き合い、よく追求、反省し、そこから導かれるものを表して行ったからでしょう。
少なくとも、私には上に紹介した言葉から真宗の何派、行としての称名念仏といったものさえ、超えたものを感じざるを得ません。
しかし、その一方で、真宗の伝統的教学や称名念仏に立ち返るという姿勢も見てとれるところもあるのです。
この辺りが、例えば禅における鈴木大拙師のような全く、その枠を超えたような生き方に比べて限界を感じてしまうところなのです。(これはその表向きの生き方、在り方のことであって、その内実的在り方のことを言っているのではありません)
どうしても彼らには、"真宗大谷派の..."という形容が付いてまわるようなのですが...やっぱり私には、"実存的光を追求し、それに照らし出されて生きる、一人の行学者"というものを感じ、共感してしまうことがどうしたってあるので(それが肝心i)、それでいいのでしょう。
先の理由でか、大拙師の本は何度も復刊され、大きな書店に行けば容易く手に入るのに、金子師のものは、過去のものになってしまったのか、ほとんどが絶版状態です。
しかし、私には忘れ難いものになったのは言うまでもありません。
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