「あなたが知りたいと探し求めているのは、他ならぬあなた自身なのだ」
(ラマナ.マハルシ「あるがままにーラマナ.マハルシの教え」/ナチュラルスピリット刊)
この本は、2005年に発刊されて以来、何度となく読み返されている愛読書なのですが、満を持して(?)取り上げてみたのでした。
何故、これまで取り上げなかったかというと、理由は簡単、多くの人が取り上げているからです。
なるべく埋もれた、世に知られていない書物を紹介したい、というヘソ曲がりのポリシーに反するのですが、"魂の読書"という観点からこれを外す訳には行かない次第なのです。
かように、この書は特に多くの瞑想修行者などの間では、バイブルともてはやされているのですが、そうでない私でも、読む度に"この書は私自身のことが記されているのだi"(聖書のイエスの言葉)、との感を強くしてゆくようです。
そうですi、先の理由だけでなく、広くキリスト教などに親しんでいる読者(私がそうi)にも読んで、共感して頂きたいという気持ちもあるのです。
ラマナの本は、3巻からなる大部のものもありますが、この本は項目ごとにコンパクトにまとめられているので、サッと読みたいところから読めるのが有難いです。
実はこの書、瞑想のノウハウのことは、ほとんど述べられてませんし、悟り、真我実現のための瞑想修行の意義といったことすら弾け飛んでしまうようなことにも触れているのですが、ラマナを知るに及んで多くの瞑想家は、その志を挫かれたのではないでしょうか?
だから、あまり瞑想修行と結び付ける必要はありません。
ここには又、知的概念からのみの理解というのはほとんど意味がありません。
分からないものは、分からない...分かろうとすれば、"あるがまま"のものを取り逃がすだけでしょう。
ただ、読み進んでゆくうちに、意識が自ずとラマナの言葉に惹き付けられるのが感じられます。自ずとそうなるというのは、本来性に導かれるということです。
私は最近、何が真理、真我であるか、ということよりもこの"本来性"というものに自然に赴いてゆくようになりました。
本来からあるものには、新たに獲得することも、到達することも出来ない...それは、そうでないものが消えることで、自ずと立ち上ってくる...
"この書を読んでいるのは誰か?、誰のことが書かれているのか?"
私が読んで、私が語っている...
この書は私のバイブルに違いありませんi
(ラマナ.マハルシ「あるがままにーラマナ.マハルシの教え」/ナチュラルスピリット刊)
この本は、2005年に発刊されて以来、何度となく読み返されている愛読書なのですが、満を持して(?)取り上げてみたのでした。
何故、これまで取り上げなかったかというと、理由は簡単、多くの人が取り上げているからです。
なるべく埋もれた、世に知られていない書物を紹介したい、というヘソ曲がりのポリシーに反するのですが、"魂の読書"という観点からこれを外す訳には行かない次第なのです。
かように、この書は特に多くの瞑想修行者などの間では、バイブルともてはやされているのですが、そうでない私でも、読む度に"この書は私自身のことが記されているのだi"(聖書のイエスの言葉)、との感を強くしてゆくようです。
そうですi、先の理由だけでなく、広くキリスト教などに親しんでいる読者(私がそうi)にも読んで、共感して頂きたいという気持ちもあるのです。
ラマナの本は、3巻からなる大部のものもありますが、この本は項目ごとにコンパクトにまとめられているので、サッと読みたいところから読めるのが有難いです。
実はこの書、瞑想のノウハウのことは、ほとんど述べられてませんし、悟り、真我実現のための瞑想修行の意義といったことすら弾け飛んでしまうようなことにも触れているのですが、ラマナを知るに及んで多くの瞑想家は、その志を挫かれたのではないでしょうか?
だから、あまり瞑想修行と結び付ける必要はありません。
ここには又、知的概念からのみの理解というのはほとんど意味がありません。
分からないものは、分からない...分かろうとすれば、"あるがまま"のものを取り逃がすだけでしょう。
ただ、読み進んでゆくうちに、意識が自ずとラマナの言葉に惹き付けられるのが感じられます。自ずとそうなるというのは、本来性に導かれるということです。
私は最近、何が真理、真我であるか、ということよりもこの"本来性"というものに自然に赴いてゆくようになりました。
本来からあるものには、新たに獲得することも、到達することも出来ない...それは、そうでないものが消えることで、自ずと立ち上ってくる...
"この書を読んでいるのは誰か?、誰のことが書かれているのか?"
私が読んで、私が語っている...
この書は私のバイブルに違いありませんi
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