私のことをよく知る人が、私がここでこんなブログを書いていることを知ったら多分ビックリするだろうと思います。
"アイツ、何を悟ったようなこと言ってんだ、バカでねーのi"なんてね。
"もう、ダメですう..."、"ああ、どうしたらいいんだ...助けてくれーい..."とか、とにかく私は人前で平気で弱みを見せたり、うろたえているザマを見せたりしているのです。
ある人なんかには私がかなりのスケベであることがちょちょバレです。もう隠しおおせません。(そうです。君が知っているのがありのままの、裸の私なのです)
"一体全体君が日頃言っている、愛と平安と共にあるという、その"ゲンリン"とやらはどこへ行ってしまったんだね?"という声も聞こえてきそうですが...
でも、私はハッキリとこう言います。
"どこにも行ったりなどしてませんよi"と...
どんなに私がダメでミジメなことになっていようと、どっかで現臨の魔法の渦巻きが起きているのが感じられるか、どうか...
その渦巻きの中心へと私を導くものがある...
ヘタレの私にとり、これがホントに肝心なことなのです。
"私は常に神と一体である"、"常に目覚めた意識にあるのである"とウソぶくことよりもはるかに...ですi
悟った人間のフリをすることは、人を欺くことになるばかりか、自分をも欺くことで、その"我が主"とのつながりを失うという致命的な事態になってしまいかねません。
それは、究極の何ものかになりたいという、エゴ的な自分に主権を渡してしまうことだからです。そうして完全な自分であろうとして、不完全な自分にはフタをして、無きものにして逆にいつまでも自分は不調和なままになってしまうのです。
私は多分、昔からその自分の欠陥を直そうとか、バランスを欠いた心をコントロールしようという、克己的精神に欠けるという、おそらく社会人としては致命的な欠点があるのでしょう。
しかーし...何とかしようとしたって、どうともならないこともある。何とかしようという気さえ起こってこないこともある。"そこを何とかしなければならんのだ!"と言われても...何とかなるんなら、世の中とっくの昔に地上天国でっしゃろi
まあ、人間誰でも色々な局面で無意識でも何とかやっているものなんでしょうけど...
私は意識してても、しなくても現臨の魔法の渦巻きに赴こうとしてしまうのです。
その渦巻きには、何ものかになろうとする自分でなく、ありのままの自分でないと、そのままをゆだねないと預かることが出来ません。
ありのままというのは、ダメでなきゃならない訳では勿論ありませんよ。
別人のように、神がかったように豹変する私の姿もそこにはあったりするのですi (どっちみちマトモじゃなさそうです)
ただありのままに、目覚めた自分だろうと、迷ったままの自分だろうと、その渦巻きに向き合うというだけなのです。
迷った自分、業生の自分には見向かれることなく、蔑ろにされたまま、霊的進化、悟りの道を歩んでいる、光につながったつもりになっていても、それらは覆い隠されたまま影のように付きまとい続けるでしょう。その闇の部分にはずっと光が当てられることがありません。
業的なもの、闇は消え去らなければ、光へと変容出来ないものなのでしょうか?
否、本当の変容とは、業的なもの、不調和な事態といったものはそのままで、闇に見えたものが魔法の渦巻きを通し光に照らされることで、相克を超えた調和へと化していくことに他ならないのではないでしょうか?
最近になってやっと何でデキソコナイのこの私が、このバカバカしい世界に生まれ落ちてしまったのか?...分かりかけた気がしてきました。
"アイツ、何を悟ったようなこと言ってんだ、バカでねーのi"なんてね。
"もう、ダメですう..."、"ああ、どうしたらいいんだ...助けてくれーい..."とか、とにかく私は人前で平気で弱みを見せたり、うろたえているザマを見せたりしているのです。
ある人なんかには私がかなりのスケベであることがちょちょバレです。もう隠しおおせません。(そうです。君が知っているのがありのままの、裸の私なのです)
"一体全体君が日頃言っている、愛と平安と共にあるという、その"ゲンリン"とやらはどこへ行ってしまったんだね?"という声も聞こえてきそうですが...
でも、私はハッキリとこう言います。
"どこにも行ったりなどしてませんよi"と...
どんなに私がダメでミジメなことになっていようと、どっかで現臨の魔法の渦巻きが起きているのが感じられるか、どうか...
その渦巻きの中心へと私を導くものがある...
ヘタレの私にとり、これがホントに肝心なことなのです。
"私は常に神と一体である"、"常に目覚めた意識にあるのである"とウソぶくことよりもはるかに...ですi
悟った人間のフリをすることは、人を欺くことになるばかりか、自分をも欺くことで、その"我が主"とのつながりを失うという致命的な事態になってしまいかねません。
それは、究極の何ものかになりたいという、エゴ的な自分に主権を渡してしまうことだからです。そうして完全な自分であろうとして、不完全な自分にはフタをして、無きものにして逆にいつまでも自分は不調和なままになってしまうのです。
私は多分、昔からその自分の欠陥を直そうとか、バランスを欠いた心をコントロールしようという、克己的精神に欠けるという、おそらく社会人としては致命的な欠点があるのでしょう。
しかーし...何とかしようとしたって、どうともならないこともある。何とかしようという気さえ起こってこないこともある。"そこを何とかしなければならんのだ!"と言われても...何とかなるんなら、世の中とっくの昔に地上天国でっしゃろi
まあ、人間誰でも色々な局面で無意識でも何とかやっているものなんでしょうけど...
私は意識してても、しなくても現臨の魔法の渦巻きに赴こうとしてしまうのです。
その渦巻きには、何ものかになろうとする自分でなく、ありのままの自分でないと、そのままをゆだねないと預かることが出来ません。
ありのままというのは、ダメでなきゃならない訳では勿論ありませんよ。
別人のように、神がかったように豹変する私の姿もそこにはあったりするのですi (どっちみちマトモじゃなさそうです)
ただありのままに、目覚めた自分だろうと、迷ったままの自分だろうと、その渦巻きに向き合うというだけなのです。
迷った自分、業生の自分には見向かれることなく、蔑ろにされたまま、霊的進化、悟りの道を歩んでいる、光につながったつもりになっていても、それらは覆い隠されたまま影のように付きまとい続けるでしょう。その闇の部分にはずっと光が当てられることがありません。
業的なもの、闇は消え去らなければ、光へと変容出来ないものなのでしょうか?
否、本当の変容とは、業的なもの、不調和な事態といったものはそのままで、闇に見えたものが魔法の渦巻きを通し光に照らされることで、相克を超えた調和へと化していくことに他ならないのではないでしょうか?
最近になってやっと何でデキソコナイのこの私が、このバカバカしい世界に生まれ落ちてしまったのか?...分かりかけた気がしてきました。
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