人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

よーくカンガエよう

2018-07-10 17:48:58 | 意識、照明
短絡的にオカルト的言説にハマるとか、ある宗教を盲信してしまうようなことを"思考停止"とか言って、主体的に自分自身で考えようとしない、内省しない精神的傾向のことを言い表しているようです。
宗教信仰のある面では、その自分の考えというものを極力排して、先師の教えを疑わずに信じ、受け入れることが奨励されるのです。
"そうしないと救われないんですよ~"と暗に刷り込まれたりしているのです。
だから長年信仰していたら、今さらやめる訳には行かなくなるようです。
そのお約束事を信じたとして確約されるか、どうかなど分からないし、自分で考えれば得心出来るかどうかも分かりません。
自分というものが、ある"擬似的な神"の中に失ってしまう(これの行く着くところはカルト地獄i)くらいなら、屁理屈だろうが、小智だろうが、救われなくなろうが、よーく自分で考えた方がはるかにいいでしょう。
(とにかく自己というものから切り離されたら、あなたの人生終わってまいまっしゃろi)
しかし、この自分で主体的に考える、内省するということには、以前にも書いたように、通常思われたものでない精神的有り様が内包されているのです。
私は、このブログを書いている時に気付いたのですが、私は昔からそうと知らずにそういうことをさせられていたようなのです。
私は大体生来頭が悪いので、自分で考える事などよおしません。特に論理的に考える事などダメです。
これは頭で考えることじゃなく、意念的に考えるより先に、表層的な思考の奥に息づいている、思考の源のような、ある原意識的な流れ(このようにしか言えない)にゆだねるようなことです。
これは内省的なことだし、ある意味で瞑想と言えるかもしれません。
この原意識的な流れのことは、"裏側"に入り込んだ時にアリアリと実感されたのですが、思考機能を失っている状態で、自分で考えるで無しに、止めどもなくある天来の叡知のようなものが意識に直接的に伝えられていたのです。
この間、頭は働かなくなっていても、本能的にか、考えようとするものがもたげようとしていたのですが、上よりの力によって強く押さえられていたのです。(まるで孫悟空が三蔵法師から頭に輪っかをはめられたように)
従って、この消息のことはいくら無い頭で考えたって到底言い表す事など出来ませんし、無理にそうすると気が変になりそうです。
そして私には不相応だったのか、大方のことは"表側"に戻ってきた際に忘れましたi(笑)
謎の超古代文献"カタカムナのウタヒ"で、カンガエることというのは、"神帰る"ことに通じるとされるのは、実に言い得て妙と言うべきです。この流れというのはあの"全てを照らす光"と結び付いているのは言うまでもありません。
このカンガエることにおいては、考えてはいけないんです。考えられないし...
しかし、表側の世界でも知らず知らずに何かの契機に表層の意識に、その原意識的なものが流出することもあるようです。
こういうことは何も神秘的なことと関連されなくとも、あらゆる人が経験していることじゃありませんか?
これまでの幾多の偉大なる哲学的、宗教的叡知というものは、このようにして生まれたに違いありません。
それはどこまでも、主体的な自己の精神の内に開かれることです。
自己と切り離して、デキアイの神などに明け渡してはならないのです。
自己信頼を欠いた、短絡思考やカルト思考、盲信は、生き生きとした精神の発露を閉ざしてしまうでしょう。
よーくカンガエること...それは自己の小智で理屈を捏ね回すことじゃない...小智は脇に置いて内なる神智に預けること、叡知の流れの通路を開くことなのです。









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