あるブログで、意識は自分の内側、内的領域しか認識出来ない、という意味のことが書かれていましたが、そういうことは無いでしょう。
もっとも意識というものは、一般にまだ理解されていない部分が多く、決まった捉え方もなされていない(こういう現状でありながら私はやたらと意識という言葉を自分なりの理解のもとに使っているのです)ようで、同じ意識のことでもこのブロガーと私は、異なる意味合いで使っているのかもしれないのです。
私がいつもここで言っている意識というのは、思考、意志想念を超えた、あるいはその源となる精神領域のことなのです。
このブログ主さんは、自分の内側というものをどうも自分の肉体を境界にして、外側と分けて理解しているようですが、肉体があってその内とか外とか捉えていることは、私の理解では思考でそう捉えられている、ということです。
“肉体がある、脳がある、心は脳にある“、といった観念は言うまでもなく先入、固定観念なのです。勿論、その内の肉体感覚というものはありますよ。しかし、精神的なことになると...思考はともかく、意識は頭の中にあるという風に感じたことは私はほとんどありません。
そして思考が後退し、純粋な意識状態にある時は、肉体感覚も希薄となり、その内側、外側の境界もハッキリしなくなるのです。
ここで、自分の思いが超えられたように感じる訳ですが、それは思考についてもですが、空間的にも自分の外側という表現も出来るでしょうが、肉体を超えたものも認識されるはずなのです。
しかし、この自分の外に超えた感覚というのは、自分の内なるものと離れたもののようには感じられ無い、ということがここでの重要なポイントなのです。
即ちそれは、超越的にして内在的な自己というものが意識されるということに他なりません。
そこで、この内側、外側と区別される概念について、以前にも書いたことがありますが、私は
ほとんど肉体を境界にしたものとして、言い表すことはなくて、その場合の外というのは、自分以外の他者を通じてもたらされる知識、情報といったもの、言い換えれば、思考を通して伝わるものとしてそう言っているのです。
一方、意識的な状態というのは、人伝でない、直接性に拠るものであり、内的に感じられたものだろうと、先の意味で自分の外に、超えたものとして感じられたものだろうと、自分の中も外も内なる世界にある、という感じになるのです。
あたかも、すべてが神の現臨に包まれているように感じられるが如くです。
だからと言って、そのように自分の内なるものと外なるものの境界が無くなれば、いつも現臨に包まれて、愛、安らぎに与れるようになるとは限らないのですが...
もっとも意識というものは、一般にまだ理解されていない部分が多く、決まった捉え方もなされていない(こういう現状でありながら私はやたらと意識という言葉を自分なりの理解のもとに使っているのです)ようで、同じ意識のことでもこのブロガーと私は、異なる意味合いで使っているのかもしれないのです。
私がいつもここで言っている意識というのは、思考、意志想念を超えた、あるいはその源となる精神領域のことなのです。
このブログ主さんは、自分の内側というものをどうも自分の肉体を境界にして、外側と分けて理解しているようですが、肉体があってその内とか外とか捉えていることは、私の理解では思考でそう捉えられている、ということです。
“肉体がある、脳がある、心は脳にある“、といった観念は言うまでもなく先入、固定観念なのです。勿論、その内の肉体感覚というものはありますよ。しかし、精神的なことになると...思考はともかく、意識は頭の中にあるという風に感じたことは私はほとんどありません。
そして思考が後退し、純粋な意識状態にある時は、肉体感覚も希薄となり、その内側、外側の境界もハッキリしなくなるのです。
ここで、自分の思いが超えられたように感じる訳ですが、それは思考についてもですが、空間的にも自分の外側という表現も出来るでしょうが、肉体を超えたものも認識されるはずなのです。
しかし、この自分の外に超えた感覚というのは、自分の内なるものと離れたもののようには感じられ無い、ということがここでの重要なポイントなのです。
即ちそれは、超越的にして内在的な自己というものが意識されるということに他なりません。
そこで、この内側、外側と区別される概念について、以前にも書いたことがありますが、私は
ほとんど肉体を境界にしたものとして、言い表すことはなくて、その場合の外というのは、自分以外の他者を通じてもたらされる知識、情報といったもの、言い換えれば、思考を通して伝わるものとしてそう言っているのです。
一方、意識的な状態というのは、人伝でない、直接性に拠るものであり、内的に感じられたものだろうと、先の意味で自分の外に、超えたものとして感じられたものだろうと、自分の中も外も内なる世界にある、という感じになるのです。
あたかも、すべてが神の現臨に包まれているように感じられるが如くです。
だからと言って、そのように自分の内なるものと外なるものの境界が無くなれば、いつも現臨に包まれて、愛、安らぎに与れるようになるとは限らないのですが...
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